カテゴリ:銀輪万葉
29日~30日の1泊2日で、友人・偐山頭火氏と亀岡・京北の銀輪散歩に出かけました。同氏との銀輪散歩は一昨年の7月以来のことである。
尤も、今回の銀輪散歩は偐山頭火氏の車に銀輪を積み込んで亀岡まで遠征、適当に亀岡を銀輪散歩して宿泊、翌日も亀岡から京北町まで車で移動という、「銀輪」も看板倒れと言うべき軟弱な内容の銀輪散歩であります。 実は、昨年4月にヤカモチが単独行で計画していたもので、亀岡から京北町(現在は京都市に合併され右京区の一部になっている。)は常照皇寺までの往復、山越えの銀輪行が下敷きになっている。もとの計画は、コロナで止む無くホテルをキャンセル、中止とした。然るところ、今年になって、1月20日の記事(「蝶に誘われ26000歩(下)」)へのコメントのやりとりの中で、コロナが落ち着いたら常照皇寺の裏手にある光厳天皇の御陵を訪ねる銀輪散歩をしてみないかとヤカモチの方からお誘いしたことで、少し形を変えて復活したものである。 3月29日午前11時30分喫茶「ペリカンの家」で落ち合い、ここで昼食の腹ごしらえをしてから、出発。 コロナが「落ち着く」どころか、大阪は「第4波」に向かって新規感染者が急増であるが、再度の中止は念頭の外、黄砂襲来の中、亀岡へと向かったのでありました。 亀岡駅前のビジネスホテル到着は午後1時半頃。ホテル駐車場に車をとめ、自転車を取り出して、銀輪散歩に出発。 偐山頭火氏はMTB。ヤカモチはトレンクル。 最近の「偐偐銀輪散歩」は共にMTBというのがお決まりになっていたが、今回は同氏の車の関係で、MTB2台の積み込みは無理があるとのことで、ヤカモチは小型折りたたみのトレンクルにしたもの。 ヤカモチがMTBを購入する以前の二人の銀輪散歩スタイル、13年前までのスタイルに戻った形になったという次第。 先ず、亀山城址の堀に沿った南郷公園へ。 (南郷公園) 桜が満開です。 (同上) (同上) 亀山城は、織田信長の命を受けて明智光秀が丹波攻略の拠点として築城したもの。 (明智光秀公築城亀山城趾の碑) 公園の一角に、その明智光秀の像が建てられている。 説明副碑を見ると、建立が一昨年5月ですから、昨年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」に因んで建立されたもののようです。 (明智光秀像) (同上・副碑) この碑の前で、偐山頭火氏とは別行動となる。 ヤカモチは亀山城址へ。偐山頭火氏は、亀山城址は以前に訪問済みなので、他へ回るとのことで、午後5時ホテルで落ち合うことに決めて、それぞれ好きな方向へ。 ヤカモチは坂を上って、亀山城址へ。 ここは、大本教の本部、聖地となっていて、見学はみろく会館1階の総合受付に申し出しなけれならない。 (全域図 大本本部 神苑案内図) (同上<見学者用のパンフレットより>) ※1~3:復元された亀山城石垣 1~2:神殿・万祥殿 3:亀山城当時の本丸入口 5:天守台石垣 6:石碑上にそびえる大イチョウ トレンクルを肩に担いで、正門(歩行者入口)から入り玉砂利を踏んで歩いて行く。 (歩行者入口からの道) 奥で左に入って、一般駐車場に回り、自転車・トレンクルをその片隅の駐輪場にとめ、受付を済ませて、城址・天守台址のある方へと進む。 天守台址を含む区域は聖域となっていて、立ち入り禁止であるが、3月31日までは天守台まで上れるとのこと。 (亀山城址・大本の神殿・万祥殿) (万祥殿への門前の案内碑) 万祥殿の左側に回り込むと、天守台への入口がある。 (天守台への入口の門) ※亀山城当時の本丸入口門はここではなく、この奥にあるもう一つの門の位置になる。 (天守台石垣と西側石段) 西側石段の手前に大イチョウの説明碑。 (大本天恩郷の大イチョウ説明碑) この大イチョウは光秀手植えと伝えられるが、江戸中期に台風で倒れ、後継ぎに若木を植えたという記録が残されているとのこと。 (大イチョウ) 天守台までは上れるとのことなので、石段を上ってみる。 最高所には、全国の国魂石を半円球状に積み上げた月宮宝座が設置されている、大本の最高至聖所となっていて、立ち入りが禁止され、撮影も不可との注意書き表示板が立てられていました。 (月宮宝座についての注意書き表示板) 傍らの大イチョウについては何も触れられていないので、撮影しても問題ないのだろうと、月宮宝座が入らない角度で大イチョウを撮影したが、背後にその一部が少し写りり込んだようなので削除することとしました。 他人様の信仰は自己の思いや信ずるところと異なるものであっても尊重されるべきものであり、その対象を冒涜することは、誰であれ、決して許されないことであります。 <追記注2021/03/31/23:15> 上記の「冒涜」の次から全ての文章、写真が消えてしまっていることに気づきましたので、以下、再度アップしました。幸い、20:51:52のアップ記事画面が閉じられずにPCに残存していましたので、それをコピーして貼り付ける(但し、写真だけはコピーとは別の貼り付け操作が必要)ことで足りましたので、簡単に消失部分の回復ができました。 この原因は、「冒涜」の「涜」が簡略体の字なので、本来の字に修正しようとしたら、それはブログでは使用できない機種依存文字のようなので、これを削除して、編集を中止して、管理画面に戻ったのですが、この時に、「冒涜」の次の「する」以下の記事部分が全て削除となるような状況になっていたようで、気づかぬうちに記事終盤部分を消してしまっていたようです。この状態の記事をご覧になったお方には、見苦しい状態をお見せすることとなり、大変失礼申し上げました。 天守台から先の東側区域も聖域にて立ち入り禁止。 (天守台東側の上り口) 引き返すことに。 (天守台石垣、東側から撮影) 大本教のことは殆ど何も知らない。教祖の出口なお、出口王仁三郎の名と戦前に政府から弾圧を受けた大本事件というのがあったということ位の知識しかない。 出口王仁三郎の名も「わにさぶろう」と覚えていて、今回頂戴したパンフレットによって「おにさぶろう」が正しいということを知ったというお粗末さであります。 出口王仁三郎がここ亀岡市の生まれであることや大正8年(1919年)に亀山城址の本丸、二の丸址を買い取って石垣の修復・整備に着手したことが、今日この地が大本の本部、聖地になっていることの起源だということなども今回初めて知りました。 亀山城についても同様に詳しくは知らない。受付で頂戴したパンフレットに年表が掲載されているので、その写真を参考までに掲載して置きます。 また、Wikipediaの記事もリンクして置きますので、詳しくお知りになりたいお方はこれをご参照ください。 (亀山城年表) <参考> 大本・Wikipedia 出口王仁三郎・Wikipedia 出口なお・Wikipedia 亀山城・Wikipedia この後、桜を求めて、保津川べりを走りますが、今日は取り敢えずここまでとします。(つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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