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2020.03.12
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「では泡雪様、私はこれで休ませていただきます。」

泡雪の部屋を女はしなやかな身のこなしで立ち去って行った。

部屋にひとり残された泡雪は苦虫をかみつぶしたような表情で、女の欲情をそそる姿態を、蝋燭が障子に影として流して行く様を目で追った。

女を招いて三日。

酒の席には付き合いはするが、思いのほか身の固い女に泡雪は苛立ちを禁じ得なかった。

だが正妻のほかに五人の妾を住まわせるこの男、元来の征服欲に火をつけられて今や門前で拾った女に無我夢中であった。

 

パン、パン、パン

ビシッ

ダダダダダーッ。

今まで泡雪の家来達が日々剣の腕を磨く道場で、長らく指南を務めていた道場長がいともたやすく板の間に打ち据えられてしまった。

大猪より泡雪を救い召し抱えられた大男は武術でも比類なき強さを存分に見せつけていた。

「おい、そこのでかい奴。お主相撲は得意か?」

今道場長を軽く倒してしまった男は、息を乱すこともなく大きな声で声を掛けた。

「相撲が得意かと?」

声を掛けられた男はそう言ってニヤリと笑った。

傍に居座る同僚たちも一応に含み笑いを漏らした。

実はこの男、甲斐の国でも相撲では部類の強さを誇る名うての力自慢だったのだ。

二人はさっそく道場横の砂地に足を下ろすと向き合い、掛け声とともにがっぷり組み合った。

しばらくお互いをひきつけ合い互角の戦いと思われたが。

男は口元に不敵な笑みを浮かべると、この甲斐一番の力持ちをやおら頭上に持ち上げて、気合もろとも地面に叩きつけてしまった。

こうしてこの男は三日のうちに泡雪家の道場長の座を奪い取ってしまった。

 

更に三日後。

 

泡雪の館の牢番が眠り薬で昏睡する前を、三つの小さな影が音もなく歩を進めた。

三つの影は一つの牢の前で足を止め、中を覗き込んだ。

「信乃さん。お久しぶりです。」

その声に驚いて犬塚信乃は目を覚ました。

この牢に囚われて早十日ばかり経っていた。

「佐飛さん?おおそれに茶阿ではないか?」

螺良猫団を率いる錆び猫の佐飛と、彼女の息子の茶トラの茶阿が、以前網乾に囚われていた犬川荘助を助け出す手伝いをしてくれた時の様に並んで立っていた。

いやもう一人。

だが信乃はこの若い猫には見覚えがなかった。

佐飛母さんはその若い猫に目配せして言った。

「千代坊、頼んだよ。」

千代坊と呼ばれた猫は、小さく頷くと早速牢の戸口の前に座り込んで錠前を探り始めた。

「信乃さん、この子は千代っていうんだ。私の甥っ子で錠前を開けさせたら天下一さ。」

佐飛の言葉が終わらないうちに、彼はいとも簡単に錠前を開いてしまった。

 

「さあ、早く。」

 

 

信乃が浜路姫の横顔を見つめていると、彼女の瞼が不意に開いた。

佐飛たちに導かれて、浜路姫の寝かせられている部屋にやって来た信乃が、許嫁の浜路そっくりの姫の顔を覗き込んだときであった。

浜路姫は目覚めたばかりの視線を、天井、襖、傍にいる男と猫たちへと向けてそこでしばらく視線を留めた。

 

次第に像を結ぶ男の顔を見つめ、やがて彼女は言った。

「信乃様。」

信乃は浜路に再会したかのような錯覚を覚えながら、自分の名を知るはずのない浜路姫が自分を信乃と呼んだのに困惑した。

「浜路姫、どうして私の名を?」

信乃の言葉に今度は浜路姫が混乱したように言った。
「姫?信乃様どうなされたのです?私です、浜路です。」






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最終更新日  2020.03.12 00:00:18
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