娘が持ってきた三つの珠に氷垣残三は見覚えがあった。
いや見覚えどころではない、畏敬の念さえ覚えずにいられなかった。
娘の掌で『義』、『信』、『礼』の文字が三つの珠のそれぞれで厳かに浮かび上がっていた。
「おお、それは!」
残三はしばらくあっけにとられて珠を見つめていたが、やがて深い夢から覚めて目を開いたときのようにみるみる自覚の念がこみ上げ、それと同時に顔が青ざめて行くのが手に取るように分かった。
彼は突然その場で立ち上がり、壇を飛び降り、三犬士の傍にひれ伏した。
家来たちは頭目の思いがけない行動に戸惑いの目を向けて茫然としていた。
それに気づいた残三は半分身を起こし、家来たちに振り向いて盛んに片腕を振りまわした。
家来たちはその様子に自分たちも彼に倣うようにという指示だと気づき、胡坐をかく者、壁に寄りかかる者、腕組みで立っている者一様にその場に跪きひれ伏した。
「里見家由来の八犬士の方々と知らず、大変なご無礼を働き申し訳ござらぬ。」
残三は声を張り上げ、額を床にこすり付けるように身をかがめた。
三つの珠を持ってきた少女は新たな展開に訳が分からず、茫然と父の傍に突っ立っていた。
残三は娘の腕を引っ張り強引に座らせ、頭の後ろを毛むくじゃらの腕で床に押し付けた。
その拍子に娘の手から三つの珠が転げ出し、床の上をごろごろと転がり『義』の珠は現八へ、『信』の珠は荘助へ、『礼』の珠は大角の下へと転がり着いた。
三人は顔を見合わせうなずくと珠を拾い上げた。
「ああ、そ、そんな、お、お楽に。」
現八は急なことに我を忘れ、目を丸くしてつぶやいた。
「うんこれはうまい。旅の道中まずい飯ばかり食っていたからこれはたまらん。いやそうでなくともうまい。」
現八は先ほどから腹をすかせた犬の様に、豪快に食事を自分の胃袋に詰め込んでいた。
「現八、そんなことを言うならもうお前の食事など作ってやらぬぞ。」
荘助は憮然と現八を睨みながら、食事のうまさに同様に舌鼓を打っていた。
「荘助そう言うな。お主の料理の腕前も大したものだ。ただ旅の中では薬味がないゆえ仕方がないではないか。」
大角も久しぶりの食事らしい食事に満足げに言った。
「知らぬと言えど、お三方には大変なご迷惑をおかけいたし誠に申し訳ござらぬ。」
残三はそう言って再びひれ伏した。
「あっ、いや氷垣様、お手をお上げ下され。現八の顔を見れば盗賊と間違われても致し方ないこと。」
そう言いながら現八を見て、荘助は先ほどの恨みを晴らした。
先程から食事をかきこんでいた現八は、急に自分が呼ばれ何のことかときょとんと背筋を伸ばした。
一同はそれを見て大笑いを始めた。
「これ、私が作ったんだよ。」
残三の横で娘が得意そうに言った。
それを聞き、荘助は驚いて言った。
「そなたが作ったのか?私に作り方を教えてくれぬか?」
重戸(おもと)というその娘は嬉しそうにこくりとうなずいた。
「それがしの妻は料理が得意で、自ら台所に立ちこの子にも料理を教えておりました。が、あの憎き扇谷の軍勢に襲われ・・・・」
氷垣残三、以前は上総結城家へ使える武士であったが関東管領扇谷定正の横暴に耐えかね兵を挙げた結城家が逆に攻め込まれた際に、彼の妻は命を落とした。
それ以来彼は、ここ穂北荘に武士団の拠点として郷士だけで治める自治の里を築き上げたのだった。
ある日ここを訪れた幼い子供とその祖母を伴った一人の僧が、自分は今から安房の国里見家へ二人を送り届けに行くところであり、実は里見家由来の八犬士を訪ねる旅をしていると語ったという。
里見家随一の手練れ金碗大輔(かなまりだいすけ)こと丶大(ちゅだい)である。
氷垣は同じく扇谷家に抗う同士として彼らを迎え、もし八犬士の者が立ち寄った際には迎え入れる約束をしていたのだ。
その時、一人の男が部屋に駆け込んで来た。
「氷垣様。盗賊が村を焼き討ちにしております。」
三犬士はすぐに刀を取り上げ立ち上がった。