地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「<宮台真司>をぶっとばせ!」 ”終わらない日常”批判 諸富祥彦編著 トランスパーソナルな仲間たち著 1999/1 コスモライブラリー
この本、もう少し面白いかなぁ、と期待していたのだが、あまり面白くなかった。もともと編著者の諸富祥彦の一連のトランスパーソナルな言動が、私には好感がもてたので、一連の著作のひとつとして読んでみたのだが、期待はずれであった。
なにゆえの期待はずれなのか。いったい私はこの本に何を期待していたのか。ブッタの心理学へと結びつくトランスパーソナル心理学が、教育や社会評論などの現場を獲得しながら、より身体化して、リアリティ溢れるものになっているか、そのようなイメージだったのである。
しかし、まず、私は宮台真司を知らない。知らないことはないのだが、いままで一切読もうとしなかった。諸富のこの本がなかったら、まず宮台について考えることはなかっただろう。そして、この本を一冊読んだあとも、ぜひ読みたい、と言う風にはなっていない。ただ、これだけ<批判>に耐えるだけの人であるなら、その代表作の2~3はどうしても読んでおかなくてはなるまい。
もうひとつ。私は実は長いことトランスパーソナル心理学が嫌いであった。というより、その第一の紹介者だったC+Fの吉福伸逸氏が嫌いだった、ということだろうと思う。彼に最初にあったのは78年、彼のマンションでの勉強会でだった。その後は88年の伊豆で会った。いずれにせよ、彼は<グルイズム>だとか、なんだとか言って、常にOshoの匂いを嗅ぎながら、批判というよりケチをつけ続けてくれた。発展的<批判>はもちろん歓迎すべきだが、彼のOshoへの<批判>は、最初の最初から的を射たものではなかった、と私は見ている。
だから、その後、彼を中心として紹介された一連のモダニズムが、トランスパーソナル心理学となずけられて一定の評価を得るようになった後は、吉福さんゆえに私はこのトランスパーソナルという言葉が嫌いになった。
ところが、偶然に読んだのがよかったのか、トランスパーソナル第二世代ともいうべき諸富の一連の言動はまぁまぁ今までの私の<偏見>を訂正してくれるようなところがあった。そして最近は玉川信明の本が、予想していたより、とても面白かったので、ひょっとしてこちらも面白いかも、と期待したのだった。
この本は10人のいわゆる「トランスパーソナルな仲間たち」の共著だが、私がやや面白いかな、と思ったのは大野純一氏の文章の一部だけだった。P225でOshoに触れていたから面白いと思っただけかも知れない。この本は実際にはオウム事件の悪夢覚めやらぬ1998年に書かれている。だから、どうもその影響下で情報が整理されないまま、当時の混乱を撒き散らしながら書かれている。
いずれにせよ、この段階のこの「仲間たち」のレベルでは私は満足できない。この人々が現在なにをしているのか、もっとBe Here Now に引き付けてみる必要があるだろう。