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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


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アンソロポロジー

2008.08.26
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カテゴリ:アンソロポロジー


「昭和の玉手箱」
赤瀬川原平 2008/06 東京書籍 単行本 190p
Vol.2 No.0252 ★★★★☆

 
このエントリーで当ブログ「アンソロポロジー」カテゴリも108となる。もともと、ネイティブ・アメリカンの集約を目指してはじめた「チェロキー」カテゴリだったが、そうそう甘くはなく、読書を進めれば進めるほど、その範囲の広さや多岐にわたる世界観の前でうろたえることが多かった。

 そのカテゴリを受け継ぐ形で、このカテゴリをはじめたのだが、レビィ=ストロースの概念を借りて 「人間学」や「人類学」という範疇でただただこのカテゴリに読み終わった本を投げ入れてきた感がある。これでいいのかどうかはわからない。しかし、これしかできなかった。

 今後は、いままでこのカテゴリに入れてきたエントリーは、新しいカテゴリをつくらず、「環境心理学」「スピノザ」に入れていこうと思う。多くのカテゴリを乱立させるとブログとしてのまとまりがなくなるし、一個一個のカテゴリが終了するまでに時間がかかり過ぎ、最初から最後までの統一性が損なわれてしまうことが多くなる。

 「環境心理学」カテゴリも、もともとは、1991年に行われた環境心理学シンポジムの追認という形でスタートしたのだが、なかなか進まない。似たような「アンソロポロジー」カテゴリに入れるべきエントリーでも、より外側に属するもので、しかもムーブメント的ニュアンスがある「動き」のあるものをこちらに入れていく。

 「スピノザ」カテゴリは、哲学者スピノザの「エティカ」一冊まるまんま読み込んでみようとスタートしたのだが、一冊を読みこむという意味でははやばやと挫折した。ブログでエティカを哲学する、というのは私には無理なようだ。そこで、いままで「アンソロポロジー」カテゴリにいれてきたものでも、より原理的なもの、より形而上的な「静かな」ものを「スピノザ」カテゴリに入れていこうと思う。

 ついでに記しておけば、「インテグラル」カテゴリは、ケン・ウィルバーのインテグラル思想に名を借りているが、実際は、ネット上の情報の「統合」を目指したものである。読書感想文みたいになってしまっている当ブログではあるが、「読書」から脱出を図って、ネットの完全住人になりたい、という当初の夢はあった。しかし、こちらもまたスタート直前にはやばやと立ち往生しているようだ。こちらは、いずれ「アバター多火手」カテゴリの後継受け皿となってしまうかもしれない。

 「アバター多火手」カテゴリは、当ブログにおけるマスコット・キャラクターである。時間と空間を超えて自由に活躍させようという試みである。転生魂であり、セカンドライフのようなヴァーチャル空間でのキャラクターでもある。このカテゴリは失敗していると成功しているとも言えない段階だが、結果としては、ネットやIT関連の書物の棚になってしまっている現実がある。

 「OSHOagarta/mmp/gnu0.3」カテゴリは、「OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2」カテゴリの後継であり、当ブログなりのOshoの読み込みである。agartaとmmpとgnuという三つの側面からの真理の探究である。しかしまぁ、実はこれもまた、Oshoの中に原理をみつけよう、原理をつくろうという最初から無理な話なので、ブログの書き込みとしては成功する見込みはすくない。しかし個人的な精神的営為としては、ここが当ブログの主テーマである。

 いくつかのカテゴリが併存して乱立している当ブログではあるが、この辺で、たったひとつのカテゴリだけに集約してみる時期がくるのではないか、と予感するようになってきた。名前は年月とか季節とか、そのような単純なものになるだろう。むしろそのほうが森羅万象がきらきら輝いてくる可能性もある。

閑話休題

 さて、赤瀬川原平は、白洲正子の本に登場していた。白洲の生前につきあいもあったようだし、白洲もどこかに赤瀬川について触れていた。古美術の白洲に対して路上観察の赤瀬川では、つながりがなさそうでありながら、むしろこの二つにつながりを見つけることができるなら、なかなか興味深いぞ、と思う。実際は後者だ。

 昭和のレトロな文化がブームになっているようだ。実際そのような施設にいったりしたことが何回もあるが、たしかに懐かしい。懐かしいと思うとともに、もう、あそこには戻れないのだという諦観がある。

 テレビはもちろん力道山の時代。試合中継のある日は店の前に「力道山対ブラッシー放映中」とかいう貼紙が張り出される。貧乏学生にコーヒー代は高いけど、やはり魅力には勝てない。悩んだ末にとうとう魅力に負けて入ると、もう席は満員。みんないっせいに天井の一角を見ている。当時テレビはみんな神棚のような高いところに置かれていた。p54 「テレビ」

 1940年生まれの村松友視に対して、赤瀬川は1937年生まれ。こちらのほうがややレトロ度が深い。チベットやネイティブ・アメリカンがこの何十年かの間にずいぶん変化してしまったな、と同情さえしちゃったりするが、実は日本社会のアンソロポロジーも劇的な変化を遂げてしまっているのである。赤瀬川のような路上観察であるがゆえに、昭和の風景がこうして切り取られていくのだろう。中沢新一の「アースダイバー」にも一脈通じる。

 いまでこそ、その古びた味をだすためにストーンウォッシュといって、新品の生地をあらかじめ石でこすって洗った商品があるのだけど、その当時、お金を出して買うのは新品だけだった。古物にはどうしてもみじな感覚がこびりついていた。
 日本では古びた物を好む侘び寂びという美意識があるのだけど、それは全体から見れば一部の話で、お金を出して買おうとする身の回りの物には、どうしても新品願望があるのだ。
p88「ジーパン」

 この本の中には「墓地」や「神社」などのテーマもあるが、あくまで路上にとどまり、形而上学には舞いあがらない。どこまでも路上であるところに、赤瀬川の昭和のレトロ度が深まっていく。
この本、当ブログの「アンソロポロジー」カテゴリの最後のエントリとしては、まことにふさわしいと、思うにいたった。







Last updated  2009.01.31 01:50:05
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カテゴリ:アンソロポロジー


「古伊万里」見る・買う・使う
白洲正子・中島誠之助・他  1993/05 講談社  全集・双書  127p 
Vol.2 No.0251 ★★★☆☆

 
5人の共著だが、講談社カルチャーブックスの企画本であり、カラー画像がふんだんに編集されている。白洲正子が巻頭言「伊万里と私」を書き、中島誠之助が、骨董屋からくさ店主として「プロ直伝お買得買物術」を書いている。

 「開運!なんでも鑑定団」のスタートが1994年4月、この本の出版は1993年5月と一年前のことであり、この段階では、1910年生まれの白洲に対して、1928年生まれの中島では、親子ほど違う年齢の差もあったのだろうが、世の中の認知度は、白洲のほうがはるかに格が上だったのかもしれない。

 80年代の日本の爛熟経済は、古美術ブームを巻き起こしたが、90年前後からバブル経済の崩壊にともないこのブームは沈静化し、落ち着きをとりもどしながらも、確実に成長を続けているようにも思われる。

 むつかしいことをいうようだが、要するに古くても新しくても、美しいものは美しく、醜いものは醜い。ただ、それだけのことで、ほかに私の言いたいことはないのである。p4 白洲正子

 たいていの人は、ここでふところ勘定をする。「一個なら買えるけど、お金がないから揃いは無理だわ」というあれだ。まずはそれが間違いの第一歩、こと骨董、いや趣味に関しては、計算は二の次で、まずはそれが欲しいか欲しくないか、必要か必要でないかの問題となる。p85 中島誠之助

 こうしてみてみると、二人とも、すでに「お決まり」の定番ポーズが確定しているようであり、やっぱりどちらも「商売人」だな、と思う。白洲はすでに故人となり、どんな美しいものでもあの世には持っていけなかったし、中島はすでに「からくさ」を閉じて古美術商はやめている。

 「見る・買う・使う」などと挑発されはするが、所詮私などは「開運・なんでも鑑定団」をみながら、人の失敗を笑っているのが似合っているようだ。そこそこの知識と、良い趣味を持ちたいとは思うが、限度というものがある。







Last updated  2008.08.26 07:02:54
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カテゴリ:アンソロポロジー


「マンダラ事典」100のキーワードで読み解く <1>
森雅秀 2008/04 春秋社 単行本 218p
Vol.2 No.0250 ★★★☆☆

 
曼荼羅、で思い出すのは実相寺昭雄の映画「曼荼羅」。たしかATG提携作品とかで、名画館のような三番館や自主上映会で上映されたのではなかっただろうか。高校生だった私は、ただただその言葉のおどろおどろした雰囲気だけに気が取られて、どういう映画だったのか、よく覚えていない。

 ただ、あの時の映画における曼荼羅という言葉は、人間マンダラとか世相マンダラに通じる言葉であり、いわゆる仏教の真奥にある曼荼羅とは直接につながってはいなかっただろう。

 この本は、「曼荼羅」に連なるさまざまなトリビアなコラムが集められている。地域もインド、チベット、ネパール、中国、日本と広範囲に広がっているし、宗教儀式の奥儀から、ユングの心理学、コンピュータ・グラフィックスの現代美術まで、広範囲に渡っている。

 各章末に列挙されている「参考文献」の数々もおびただしい数で、一旦はリストを作って、追っかけ読書をしてみようか、とさえ一時は思ったが、諦めた。多すぎるし、入手不可能な図書もずいぶん含まれているようだ。ただ、この書の成立には協力者もおおくあり、その中に正木晃の名前もあったので、なんとなく親近感を感じてしまった。

 この本を一冊読めば、曼荼羅とは一体なんのことか、ということは大体わかる。手元に置けばたしかに役立つこともあるかもしれない。しかし、このような曼荼羅の知識を広範囲に必要になるとは、どういう人だろうか。曼荼羅についてのこれだけのトリビアを身につけていたとしても、私にとってはあまりありがたく感じないようだ。

 「秘密集絵マンダラ」とか「究境次第」など、なんだかゾクゾクとするような「どこでもドア」があちこちに埋め込まれているようで、まさにこの本が一冊の巨大な曼荼羅になっている。

<2>につづく







Last updated  2008.11.02 16:27:48
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2008.08.25
カテゴリ:アンソロポロジー

「さらに深くチベットの歴史を知るための読書案内」正木晃・選
その1


チベットの全体像を把握するために

「チベット(上・下)」 山口瑞鳳 1987  1988 東京大学出版会

「チベット文化史」 ディヴッド・スネルグローブ 2003/9 初版1998/4 原書初版1967年 春秋社

「チベット文化 決定版」 ロルフ・アルフレド・スタン /山口瑞鳳 1993/05 岩波書店 

「チベット」 多田等観 1942/04 岩波新書

「チベット史」 ロラン・デエ 2005/10 春秋社


国際法から見たチベットと中国の関係を知るために

「中・印紛争と国際法」 入江啓四郎 1964/07 成文堂

「清帝国とチベット問題」 平野聡 2004/07 名古屋大学出版会


転生活仏制度を知るために

「活仏たちのチベット」 田中公明 2000/4 春秋社 


モンゴルを知るために

「モンゴル帝国の興亡」 岡田英弘 2001/10 ちくま新書

「モンゴル帝国の興亡(上・下)」 杉山正明 1996/05 1996/06  講談社現代新書


オイラト・ジュンガルを知るために

「最後の遊牧帝国」 宮脇淳子 1995/2 講談社選書メチエ


ダライ・ラマを知るために

「14人のダライ・ラマ(上・下)」 グレン・H・ムリン 2006/10 春秋社 


チベット仏教(密教)の全体像を理解するために

「チベット密教」 立川武蔵・他 新装版2005/8 初版1999/8 春秋社

「チベット密教」 田中公明 1993/04 春秋社

「チベット密教の本」 死と再生を司る秘密の教え 1994/12 学習研究社 

「密教の思想」 立川武蔵 1998/12 吉川弘文社 

「松長有慶著作集(全五巻)」 松長有慶 1998/04 法蔵館

「羽田野伯伯猷 チベット・インド学集成(全四巻)」 羽田野伯猷 1986/11~1988/02  法蔵館

「インド学 密教学論考」 宮坂宥勝 1995/11  法蔵館

「性と呪殺の密教」 怪僧ドルジェタクの闇と光 正木晃 2002/10 講談社選書メチエ


日本人が体験したチベットを知るために

「チベット旅行記(全五巻)」 河口慧海 1967/7 講談社学術文庫

「秘密の国 西蔵遊記」 青木文教 1990/02 中央公論新社

「チベット滞在記」 多田等観 1999/2  白水社

「秘境西域八年の潜行(全三巻)」  西川一三 1990/10~ 中公文庫 

「チベット 偽装の十年」  木村肥佐生 1994/04  中央公論新社

「西蔵漂白(上・下)」  江本嘉伸 1993/03~  山と渓谷社


ツォンカパの著作

「大乗仏典 ツォンカパ」 1996/11 中央公論社

「インド・チベット 真言密教の研究」 高田仁寛 1978/03 学術振興会 「大真言道次第論(ガクリム・チェンモ)」タントラの部分の邦訳

「仏教瑜伽行思想の研究」 ツルティム・ケサン他 文栄堂 「菩提道次第公論(ラムリム・チェンモ)」の「止の章」 未読

「ツォンカパ中観哲学の研究1」 菩提道次第論・中篇  観の章 ツルティム・ケサン・高田 順仁・共訳  1996/07 文栄堂書店

「アーラヤ識とマナ識の研究」 ツォンカパ著  ツルティム・ケサン 小谷信千代共訳 1986/06  文栄堂書店 主著「クンシ・カンテル」自伝詩「トジェ・ドゥレマ」併載

「ツォンカパ中観哲学の研究2」 レクシェーニンポ  中観章 片野 道雄・ツルティム・ケサン共訳 1998/07  文栄堂書店

「チベット仏教哲学」 松本史朗 1997/11 大蔵出版


<以下、その2につづく>
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補記 字数制限のため、リストを二つに分割した。2008/09/05







Last updated  2008.10.31 09:18:12
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2008.08.24
カテゴリ:アンソロポロジー

「ダライ・ラマ自伝」
ダライ・ラマ /山際素男 1992/01 文藝春秋 単行本 336p  文庫本化 2001/06  文藝春秋  文庫  436p 
Vol.2 No.0248 ★★★★★

 
ダライ・ラマの自伝は「チベットわが祖国」も読んだが、他にもヴァージョンがあるようだ。あちこちに散在しているダライ・ラマ・ストーリーを自分の記憶の中につなぎ合わせて、なんとなく知っているつもりになっているが、まだまだいろいろありそうだ。
人名や地名はもとより、こまかいディティールはすでに忘れてしまっていることも多く、あらためて知ることも多い。

 13世ダライ・ラマが輸入した3台の乗用車にも当時は夢中になった。彼はときおりラサに物を運んだりするに使っていたが、死後打ち捨てられたままノルブリンカの車庫に入っていた。1台はアメリカ製ダッジ、他の2台はオースティン。いずれも1920年代後半の物である。ほかに、1948年にティベット通商使節団がアメリカに行ったとき持ち帰ったウィリスのジープがあったがほとんど使われていなかった。p57

 ダライ・ラマの車というと、映画「Seven Years in Tibet」の中にでてきた一シーンをおもいだす。原作のハインリヒ・ハラーの「チベットの七年」がどれだけ史実を記録しているか、あるいはブラッド・ピット主演の映画が、必要以上に脚色していないか、こまかいところはわからないが、それはこの作品に限ったことではない。チベット人ならざるものにとっての当時のチベットとは、まずはこのような理解でいいのだろう。

ダライラマ車1.jpg


ダライラマ車2.jpg


ダライラマ車3.jpg

 映写機同様車の知識をもっているものを探すのにひと苦労した。しかしなんとか使えるようにしたいというわたしの執念が実り、タシ・ツェリンというインド国境の南にあるカリンポン出身の、おそろしく気の短い運転手を見つけ出した。二人がかりで車と取り組んだ結果、オースティンは、もう一台のほうの部品をとりはずして修理し、なんとか動くようになり、ダッジとジープはままの状態で、わずかな手直しで使えるようになった。

 もちろん車が動くようになったからといってそれで遠出ができるわけではない。だがどうにも我慢ならず、運転手が留守の間にドライブしようと意を決した。ダッジとジープの鍵はドライバーが持っていってしまったが、ベビー・オースティンはマグネット点火になっており、クランクを手回しすればエンジンがかかった。

 そっと車を車庫からバックさせ、庭にまわった。まずいことに、ヘッドライトの片方のガラスが粉々に壊れてしまい、明日までに直しておかないとドライバーに見つかり物議をかもすおそれがある。

 ぶつからないよう用心して車を戻し、早速修理にとりかかった。あいにくとそのガラスは曇りガラスで、なんとかサイズは合わせられたが、色合いはどうにもごまかせない。わたしは知恵をしぼり、砂糖シロップを表面に塗りつけ、まあまあの出来に仕上げることができた。われながらうまくいったとご満悦だったが、ドライバーに見破られてはしないかと気が気でなかった。p57

 ダライ・ラマがハラーに最初にあったのは1948年頃とされるから、13歳のころのエピソードだろう。ごくごくお茶目でいたずら好きな、好奇心旺盛な少年がここにいる。

 わたしは中華人民共和国との提携の可能性を本気で考え始めた。マルキシズムを考察すればするほど気に入ってきた。それは、万人の平等t正義に基づく制度、世界の悪への万能薬を宣言している。理論的観点からいえば、その唯一の欠点は、人間的存在を純粋に物質的側面からのみとらえようとする面に思え、これには同意しがたかった。また彼らの理想追求のために用いる手段も気にかかっていた。その硬直さがあまりに目立ちすぎる。それでもわたしは共産党員になりたいという気持ちすら表明した。仏教と純粋なマルキシズム理論との統合によって政治を導く効果的方法を編み出しうるのではないかと考えたのであり、今でもその可能性を考えている。p116

 パンチェン・ラマとともにダライ・ラマが北京に招待されたのは1954年。19歳の青年らしく、理想に燃え、偏見のない広い見識をはぐくんでいる。

Seven Years in Tibet Trailer

Seven Years in Tibet Part 1

Seven Years in Tibet Part 2

Seven Years in Tibet Part 3

Seven Years in Tibet Part 4

Seven Years in Tibet Part 5

Seven Years in Tibet Part 6

Seven Years in Tibet Part 7

Seven Years in Tibet Part 8

Seven Years in Tibet Part 9

Seven Years in Tibet Part 10

Seven Years in Tibet Part 11

Seven Years in Tibet Part 12

Seven Years in Tibet Part 13







Last updated  2008.08.25 10:01:54
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2008.08.23
カテゴリ:アンソロポロジー


「清帝国とチベット問題」多民族統合の成立と瓦解
平野聡 2004/07 名古屋大学出版会 単行本 p322,
Vol.2 No.0247
★★★★☆

 
ふと裏表紙を見ると、わざわざ「サントリー学芸賞 思想・歴史部門 第26回受賞作品(2004年)」とワープロ文字を打ち込んだラベルテープが貼り付けてある。図書館独自の作業だろうが、当時よほど話題になったのか、あるいは図書館にこの手の本の強い支持者がいるのか。いずれにせよ、地味でまじめな研究だから、なかなか一般の興味をひくことは難しいのかもしれない。値段もちょっと高めの6000円。よほどのファンじゃないと手がでない。

 
「サントリー学芸賞」とはいかなるものか定かではないが
、「人文科学、社会科学の芥川賞」とも称される、ともあるから、知る人ぞ知る賞ということになるだろう。政治・経済、芸術・文学、社会・風俗、思想・歴史の四つの部門があり、「思想・歴史」の部門の歴代の受賞者リストを見ると、なるほど地味目の学者たちの名前が並んでいる。

 本書は1970年生まれ当時34歳の新進学者の、学位取得論文に多少修正したものというから、きわめてしっかりしたまじめな一冊といえる。まじめな研究だけに、ちょっと量も多く肩が凝るが、学問的に言えば、空白になっていた部分を埋めたというような功績もあるらしい。

 激しくも美しい気候風土の中で独自の社会と文化を花さかせた人々が、何故によりもよって被抑圧者の救済や幸福という理想を掲げる共産主義者の支配下で巨大な悲劇に見舞われたのだろうかという衝撃とともに、高校生の筆者はチベット問題の存在を知ってしまった。そして1989年、大学入学の直前にラサでのデモ行進が武力鎮圧され、大学入学直後に64事件(第二次天安門事件)が発生し、どちらも経済発展という飴と思想統制という鞭によって収拾されたのである。筆者はこうした状況を眺めながら、チベット問題を考えることは、実は中国という国家のあり方や、政治とは何のためにあるのかという問題そのものを考えることにつながるのではないかという発想を抱くようになった。p320「あとがき」

 1989年の天安門事件は世界中の目と耳をそばだたせた。あれ以来、中国内外の中国へのまなざしは大きく変わった。中国もまた内国問題を対外問題へとすりかえる手法に大きく転換した。反日政策への加速もその一環と言われている。当時の騒動を高校生の目でとらえ、大学入学後も決して直線的に進んだ研究ではないにせよ、こうしてひとつの大きな成果になるわけだから、私のような単なるチベット・ミーハーがうろうろきょろきょろしていたのとはわけが違う。

 巻末にも長く詳しい注があり、「引用文献一覧」があるが、一般図書館に収まっているような文献とは趣が違い、学術論文として発表されたものが多数含まれているようだ。もちろん日本語以外のタイトルが多くある。

 モンゴルや新疆における藩部統合と照らし合わせてチベットだけがひとり「独立」状態を享受でき、とりわけ新疆と比べて清軍の圧迫にさらされない状態でありながら、同時に清帝国の統合の一部分として強く認識され、かつそれが19世紀前半を通じて総じて不変だったのは何故なのか。筆者は次のように考える。p181

 事実を知れば知るほど、真実というものが導き出される。中国共産党が「国内問題」として「内政不干渉」という煙幕を張って、権力の横暴の限りをつくさないように、内外の多くの人々が目をみはる必要がある。インターネットによるような情報開示や自由な発言は勿論であるが、キチンとした事実関係に対する認識の積み上げや、説得力ある国際世論の形成も絶対的に必要だ。

 正木晃の「裸形のチベット」の読書案内においても、この「清帝国とチベット問題」は、チベットと清の関係について詳細に論じている、として筆頭に紹介されている。

 「チベット仏教と清帝国」、「『中華世界』と清帝国」、「新帝国の統合における反華夷思想と文化政策」、「尭舜に並び超える『皇清の大統一』」、「『自治』論の時代」、「英国認識とチベット認識のあいだ」とはこび、最終的に「結論」として、筆者は次のように切り出す。

 近現代「中国」の国家統合における最大の問題点の一つは、何故儒学思想と漢字の優越性が周辺民族にも認識されたことを前提とする「中国王朝・中華帝国」と諸朝貢国の関係が20世紀の中華民国・中華人民共和国へと結びつかず、これに対して儒学と漢字を共有せず「東アジア世界」に属するとは言えないモンゴル・チベット・トルコ系ムスリム」が「漢民族とその文化を中心とする中華民族」の不可分の一体として組み入れられ、宗教的・民族的な緊張が続いてきたのかということである。そして、モンゴル・チベット・トルコ系ムスリムの存在は、従来多くの場合「中国」の「周辺」「辺境」として把握されてきたため、彼らが如何なる経緯・論理ゆえに「中国」国家に組み入れられてきたのかという問題に対する認識は一部の歴史研究者を除けば深められることはなく、そのことがなおさら「中華世界の多様性・包括性」なる言説と民族問題の尖鋭な現実との間に横たわる断層を深くしてきたことは否めない。p261

 慧眼ならず、歴史研究者ならざる身なれば、チベット問題の本質とは、なかなか理解できないことは仕方無い。しかし、現代地球でおきている非道理に目をつぶりつづけることは、隣人に対する広い愛を標榜する地球人スピリチュアリティには、おおいに反する。

 他の本で、どこに書いてあったかメモ忘れしてしまったが(たしか「アジアの試練 チベット解放は成るか」ではなかったか)、 オリンピック開催と、その後の10年後の国家の在り方について興味深いことが書いてあった。1936年にベルリン・オリンピックを開催したヒトラー・ドイツは、1945年に消滅した。1980年にモスクワ・オリンピックを開催したソビエト連邦は、1990年に共産党一党独裁を終焉せざるを得なかった。

 他の二国の例と比較することが正しいかどうかは定かではないが、今回2008年に北京オリンピックを開催した中国共産党。かつての独裁国家とは背景も地域も違っているが、ものごと全体が見えてくると、「チベット問題」とはすぐれて「中国共産党問題」なのではないか、と思えてくる。今後国際社会が目を据えて注目していかなければならない問題のひとつに、このテーマが加わっていることは間違いない。







Last updated  2008.08.23 11:43:35
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2008.08.22
カテゴリ:アンソロポロジー


「裸形のチベット」 <1> チベットの宗教・政治・外交の歴史
正木晃 2008/07 サンガ 新書 279p
Vol.2 No.0246 ★★★★☆

 ある意味で、本書は、チベット・ファンの期待を裏切ってしまう可能性がある。しかし、事実を知らずに、ただ「かわいそう!」と単純な動機から同情するだけでは、チベットを救うことはできない。私たちに何ができるのか? それを考えるためには、なににもまして、事実を知ることだ。そこからしか、真の意味では、なにごとも始まらない。p9

 「チベット」とはなにか、チベット「国」とはなにか、チベット「人」とはなにか、チベット「仏教」とはなにか。漠然とわかっているつもりになっているようなことでも、ひとつひとつのことについて、いかに曖昧にしかイメージを持っていないかが痛感される。

 しかし、それはもっともなことだろうと思う。それはチベットに限らない。アジアのほかの国や地域や民族についてであれ、あるいは中東やアフリカ、あるいはいずこの先住民たちについてであれ、ものごとを知ろうとしたら、それはただごとではない。地理も歴史も言葉も文化も、深くゆっくりと理解しようとしなければ、決してわかるものではない。

 世にチベット本は数あまたあれど、日本語文献として、当ブログがめくってきたチベット関連本の中では、正木晃が関わる本は、ベストと言っていいのではないだろうか。この本もまた今年のFREE TIBETの動きを丁寧に反映しながらも、決して緊急避難的なジャーナリステッィクな好奇心を満たすためにだけ書かれているのではなく、真実のために事実を知ろうという姿勢を推奨する一冊だ。

 もし人間に少しでも気づきがあるならば、チベットは解放されるべきだ。それはこの2000年の時を、何もすることなく、瞑想のなかにより深く入ってゆくことに捧げてきた唯一の国なのだ。そしてそれは全世界が必要としている何かを教えることができる。 「Om Mani Padme Hum」Osho#1

 本書に「チベットの宗教・政治・外交の歴史」というサブ・タイトルがついている限り、政治や外交の歴史も獏とはしながらも、決して善的側面ばかりではなかったことを踏まえておかなくてはいけない。でもそれでもなおチベットが人類史において切り開いた地平は稀有なものがある。とくに「宗教」において。

 チベット密教の中核をなす後期密教の理論では、仏教の最高真理たる「空」は、至上至高の性的快楽というかたちで、心身に把握される。性的快楽を、特殊な技法を駆使して、極限まで高めていけば、そのかなたに「空」が体得できるはずなのだ。ただし、性的快楽は、どこまでいっても性的快楽にすぎず、そのまま「空」を体得できるわけではない。性的快楽は、「空」へと次元を超える跳躍をするための、いわばジャンプ台なのだ。しかし、このあたりを曲解ないし誤解すれば、性的快楽が即、真理の把握につながるという幻想を生む。事実、そのような傾向が多々みられたことは否めない。あるいは、チベット仏教が、中国やモンゴルの権力者たちに、自分たちの存在意義を売り込むために、あえてそういう手段に出た可能性もある。p226

 現在のチベットのことを考えると、単にこの60年ほどの中国共産党とのつきあいだけではなく、清やモンゴルとの長いつきあいを思い出さなくてはならない。モンゴルについては、同時代人として優れた研究をしている
杉山正明を思い出す。 

 21世紀という「とき」の仕切りに、はたしてどれほどの意味あいがあるものなのか、わたくし個人にはよくわからない。しかし、人類社会もしくは地球社会という空前のあり方のなかで、生きとし生けるものこぞって、ともども生きていかなければならない時代となった。たしかに、「いま」は、これまでの歴史とは画然と異なった「とき」に踏み込んでいる。かつてあった文明などといった枠をこえて、人類の歩みの全体を虚心に見つめ直し、人間という立場から共有できる「なにか」をさぐることは、海図なき航海に乗り出してしまったわたくしたちにとって、とても大切なことだろう。それは、一見、迂遠な道におもえるが、実はもっともさだかで有効なことではないか。「疾駆する草原の征服者」 杉山正明 p374

 杉山については、わずかしか読んでいないが、貴重な存在だと思うので、リストを作成しておく。

「遊牧民から見た世界史」 1997/10  日本経済新聞出版社

「逆説のユーラシア史」 2002/09 日本経済新聞出版社

「疾駆する草原の征服者」 2005/10 講談社

「モンゴル帝国と長いその後」 2008/02 講談社

 本書巻末には「さらに深くチベットの歴史を知るための読書案内」がついており、10ページに渡って日本語文献がリストアップされている。「モンゴルを知るために」ではやはり杉山正明が紹介されている。当ブログでも数百のチベット関連本をめくってはきたが、図書館に収められている分だけでもとてもとても読み切れるものではない。しかし、このように正木晃の手によってリストアップされていると、全体像が見えてくる。当ブログとしても、今後は、このリストからすこしづつ補完すべき書をピックアップしていくことにする。

 白洲信哉の「『日本の神』とは何か」という投げかけに対して、当ブログが「かつてあった『日本の神』は、未来の『地球人スピリット』へ成長していく過程にこそある」と毒づくとするなら、「チベット密教」についても、同じ態度をしめさなくてはならない。One Earth One Humanity  一つの地球上にあって、その地球に生きる地球人の意識には深く通ずる共通点があるべきだ。もし地球人としてひとつの人間性が求められるとすれば、広く開かれた隣人への愛と、深く静かな瞑想への道、その体現こそが究極の姿なはずだ。

 ヒステリックなパワー・オブ・バランスの中で、いたづらに自らの生命力を擦り減らしてはならない。つたない言葉でしかないが、「チベット密教」にとってもまた、未来に生きる「地球人スピリット」への中へ飛翔し溶け込んでいくことこそ、現在抱え込んでいるジレンマと問題の解決策であるように見える。

 いや、チベット密教こそ、新たなる21世紀以降の「地球人スピリット」をリードしていく先見性を持ち得ている。そのような視点があればこそ、チベット人ならぬわが身でありながら、なぜにこれほどまでチベットに魅力を感じ続けるかの意味が解けてくる。

<2>につづく







Last updated  2008.08.31 11:12:04
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テーマ:中国&台湾(3085)
カテゴリ:アンソロポロジー


「変わる中国 変わるメディア」
渡辺浩平 2008/07 講談社 新書 234p
Vol.2 No.0245 ★★★☆☆

 「中国社会に起きている静かな革命の真相」
 「プチブル向け新聞、衛星テレビ、ITメディア」
 「13億人は何を見て、どう感じているのか」
 表紙帯

 なんとも勇ましくも禍々しささえ連想させるコピーだ。特に北京オリンピックが間もなく閉幕しようという時、決勝リーグで韓国戦に敗れて星野ジャパンの金メダルへの道が断たれた瞬間にこのような本を読んでいると、ますます腹の虫の収まり具合がよくない、というものだ。

 しかしちょっと検索してみると、「変わる中国ビジネス環境」、「SARSで変わる、中国インターネット事情」、「中国特需----脅威から救世主へと変わる中国」、「五輪で中国はどう変わるのか」などといった情報が盛んに飛び交っており、「変わる中国 変わるメディア」というセンセーショナルなタイトルのこの本についても、これらのあふれる情報の不安定な文脈の中でのワンフレーズとして冷静に受け取っておきたい。

 日本の書店には、中国のおおろおどろしい姿を伝える本ばかりがならぶようになった。将来、中国は国際社会の大きな脅威となるのではないか。中国の指導層が統治を誤ると大混乱が起こり、日本に難民が押し寄せるのではないか・・・・。中国をスタートとする連想は、悪いほう悪いほうにすすんでしまう。p5

 メディア・コミュニケーション研究者であり、中国メディアのウォッチャーである著者が書いている本なので、インターネットやテレビを含む様々なメディアの昨今が活写されている。特に三年前から企画されてまもなく出版という今年春に起きた、チベット問題や四川大地震、北京オリンピックの準備などの情報についても緊急的に触れられており、目を通しておく必要は感じる。

 ただ、中国共産党の強圧的な姿勢や偏向報道などは、具体的な個別事例については知らないことばかりだが、まぁ、ありえることだろうと、推定の範囲内に収まっているのではないだろうか。中国製ギョウザ事件にしても、あれだけ中国国内に原因はないとしておいて、簡単に翻す。まぁ、ありえることだ。

  このありえることだ、という感覚は、別に中国共産党だけについてだけ言えるものではない。常に権力者たちはこのような姿勢を持って民衆に対峙してきた。9.11直後のアメリカだって、コイズミ旋風をバックにした日本からの自衛隊派遣だって、白を黒とまで言いかえたとしても、権力者たちはその権力を強権的に押し通してきた。

 言論統制された戦時中だけではなく、戦後の復興期においても、マスメディアの偏向報道などは、なにもいまさら外国のことを笑っている場合じゃぁない。日本国内でだって、ごくごく最近でさえ行われているではないか。マスメディアの自律性なんて高い思想は、豚に真珠、あまりに情けないことも多すぎる。

 しかしまぁ、だからと言ってマスメディアが全部だめなこともなく、中国だけを許していいわけでもない。このような書が著わされ、世に流通するなら、ひととおり目を通しておくことは、全体的な風通してをよくするためにも、必要なことだと思う。具体的な中国についての情報は、いますぐに必要となることはないし、個別的な反論すべき個所も見つけることはできない。だが、これらの情報に触れる時は、私は常にステレオ効果を狙って、複数の表現、場合によっては、反対に位置する異論もきっちりおさえておかれるべきだろう。

 真ん中に位置する「中国」は、西の蔵である「西蔵チベット」を支配下において、東の蔵と見立てた日本を中国の「東蔵」として支配権を拡大してくるかもしれない。その可能性はゼロではない。そのような可能性を踏まえながらも、いずれにしても日本の10倍の人口が住んでいる中国という国家が、隣にあることは忘れることはできない。







Last updated  2008.08.22 16:06:04
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カテゴリ:アンソロポロジー


「白洲正子の宿題」「日本の神」とは何か
白洲信哉 /野中昭夫 2007/10 世界文化社 単行本 222p
Vol.2 No.0244  ★★☆☆☆

 掛け軸でお酒を飲む作法を教えてくれたのは白洲さんである。一級の美術品に対する最高のほめ言葉は「おっ、これで飲めるな」ということ。最初にお目にかかって以来、合うといつもお酒を飲んでいたから、「たまにシラスシンヤじゃなくて、シラフシンヤが見たい」と軽口をたたいたこともあった。
p18 茂木健一郎「婆娑羅はすでに始まっている」

 茂木健一郎の巻頭言はともかくとして、この本もまた「祖母・白洲正子 魂の居場所」と同じ出版社からでているところをみると、柳の下のどじょうを狙う企画本というニュアンスがないでもない。これではまさに「江原啓之神紀行」となんにも変らないではないか。いやむしろ江原のほうがもっと広域を歩いている分だけ「日本」を網羅しているといえる。
茂木も「白洲信哉の婆娑羅はすでに始まっている。伴走する読者は幸いである。」p21なんて、おべんちゃらを言っている場合だろうか。

 宇宙人や金星人よりは、地球人という存在のほうにリアリティを感じるが、いきなり「日本の神」というところまで退却されると、それも困る。中国人やチベット人
などというレベルまで細分化された民族論よりは、やはり私は地球人レベルでものごとを考えたい。「日本の神」とはなにか、という副題ではあるが、私なら、ここを「地球人スピリット」とはなにか、と書き変えたい。

 もっと言うなら、かつてあった「日本の神」は、未来の「地球人スピリット」へ成長していく過程にこそある、と言いたい。父母や祖父母の「財」(それが精神的なものであろうと)をむやみやたらに食いつぶす姿勢は、喜べない。江戸、明治、大正、昭和ときて、現代人たる私たちは平成に生きている。21世紀だ。「古典美に憧れる中年婦人」たちの人気アイドルを気取っているばかりなら、この「タレント」孫にスポットライトがあたっている時間もそう長くあるまい。







Last updated  2008.08.23 05:19:54
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カテゴリ:アンソロポロジー

「祖母・白洲正子 魂の居場所」
白洲 信哉 2002/09 世界文化社 269ページ 
Vol.2 No.0243  ★★★☆☆

 
最近、元総理大臣の孫でロック・シンガーという青年がたびたびテレビに顔を出すようになった。もの覚えの悪い私はまだその「スター」の名前もよく覚えていないのだが、顔はすぐ判別つくようになった。そしてその彼のジェスチャーと、特徴的な手袋(と言っていいのかな)も。

 彼は、消費税が上がった時に総理大臣の孫で、小学生(だったと思うが)時代には、クラスメイトや教師からさえ、お前のじいちゃんのせいだ、みたいに言われていたらしい。

 そんなこともあってか、ロック・スターを目指す彼は、最初、自分の出自は秘密だったという。そして20代をロック修行にあけくれてきたのだが、どうも芽がでなかったようだ。先日、日曜朝のテレビ番組「サンデー・ジャポン」にでて、いろいろインタビューに答えていた。

 最初はどうして自分が総理大臣も孫だって隠していたのですか、という質問には、ロックと政治、って真逆(まぎゃく、と発音していた)じゃないですか。それに、なんだかパワーを出してきたな、って思われたくなかった、と答えていた。

 でもそれなのに、なぜ最近になって、自分が総理大臣の孫だっていうことを公開したのですか、という質問には、いやぁ、自分もまもなく30になるので、いつまでこんなことやっているんだって、そろそろなりふり構ってはいられなくなったから・・・・、と「正直」な受け答えをして、大いに受けていた(爆)。

 正直言って彼の歌はあまり上手ではないように思う。いやテレビで数曲聴いただけだから、本当のところはよくわからない。しかし、彼は彼なりにスターにのしあがっていく素質がありそうだ。他のどこぞの総理大臣の子供も、俳優としてデビューしたのがいたが、はて、この世の中、どのような足がかりで生きていくのか、みんなそれぞれでいいのかもなぁ、と、ひとり溜息をついてみる。

 白洲信哉は、白洲次郎・正子の孫。「祖母・白洲正子」というタイトルまでつかって「なりふりかまわぬ」活躍ぶりだ。著者は信哉になっているが、正子の文章が使われたり、他の人々との対談あり、写真家・小林庸浩の多数の写真があったりする。信哉が独自に開拓した読者層にむけた本というよりは、「古典美に憧れる中年婦人たちのカリスマ的存在」であった祖母のファンというか信者というか支持層というか、その読者たちが求める、本来であれば、祖母が務めるべき位置をちゃっかり受け継いで、出版社の企画にうまく乗っかっている、という雰囲気がある。

 かのロック・スターが割とすんなり世の中に受け入れられているように、信哉の場合も、特段の違和感もない。ましてや小学生時分から正子の旅のお供をした、という「経歴」があればこそ、その位置は信哉以外には務めることができない仕事といえるのかもしれない。

 本としては素適な本だ。文章もあくびがでるようなのうのうと長い文章は見当たらず、適度に切り離されている。写真もたっぷりある。誰もがこのような本を出すことができるとは限らない。うまい位置をしっかり受け継ぐことができた、と慶賀すべきなのだろう(か?)。彼には「白洲次郎の青春」という本もある。なかなか巧みな技をつかう使い手だ。

 「魂の居場所」というタイトルも好感を持つ。いまさらなりふり構っていられない孫が、かと言ってあまりガツガツしたところも見せずに、うまく時流に乗ろうとしている(と言ったら言いすぎだろうか)。うまくいくかどうかは、もうすこし時間が経過してみないとわからない。うまく行ったとしても、本人が満足するか、本人の魂が成長するか、は別ごとだが。

 文章は上手だと思う。決して長くなく、なんども推敲された結果であろうが、なかなか美文であると私は思う。ただ、よくよく考えてみれば、昨今のスピリチュアル・ブームとやらにもうまく乗っかろうとしている向きもないではない。もちろん、かつてのアンノン族に対するようなマーケティングではないにせよ、「古典美に憧れる中年婦人たち」を惑わす「アイドル」的存在としての自分の立ち位置を求めているような雰囲気がちょっぴり感じられる。

 1965年生まれで今年43歳という働き盛りのお孫さんゆえ、この辺でひとつ、おじいちゃん、おばあちゃん、あるいはご先祖さまたちから離れて、独自の世界を切り開くことも、必要になってくるのではないだろうか。「魂」という言葉は、簡単に使いこなせる言葉ではないが、この言葉を本当に使いきれる存在に成長することを期待したい。







Last updated  2008.08.23 03:13:59
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