「メディア・コントロール」 正義なき民主主義と国際社会
ノーム・チョムスキー 鈴木主税・訳 2003/4 集英社新書
チョムスキーについては、このブログでも何冊か読んできた。
「覇権か、生存か」 --アメリカの世界戦略と人類の未来 2003 原書 HEGEMONY OR SURVIVAL America's Quest for Global Dominance 2002
「G8 ってナンですか?」 15人との共著 2005
「チョムスキー、民意と人権を語る」 レイコ突撃インタビュー 2005 岡崎玲子との共著
エイヴラム・ノーム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky, 1928年12月7日 - )は、マサチューセッツ工科大学教授。言語学者、思想家。多面的な活動を長期に渡ってくりかえしてきた人を、数冊の著書から計り知ることは至難の業だ。だから、時に他の掲示板や友人のブログなどに彼の話がでてくると、私なりに注意して読んでいるつもりだ。ただ、言語学者としての彼については、ほとんど知らない。言語学者としての彼の側面については、例えば他のいくつかの本でも突然でてきてびっくりするときがある。
彼のそちらの「本業」での成功をきちんと評価しないことには、反戦運動家や、「アメリカの良心」と言われるチョムスキーの真実の顔を知ることはあたわないであろう。ただ、私は私なりにメディアというものについての信憑性や歪曲性、というものを敏感に感じてきたつもりだ。民主主義というものについても、それこそ「私なりに」という限定つきだが、考えもし、行動もしてきた。さらには、ネット社会における新たな可能性について、模索段階ではあるが、このブログでも実験中と言えるだろう。
そういう意味全体から見て、チョムスキーには、良き現代アメリカ人的なオープンな人柄も感じるが、また、ユダヤ人(かどうか私には断定できない)的な明瞭さ、透徹さを感じることも、間違いない。しかし、それでいいのか、それが最終ポイントなのか、と問われると、私にはそうだ、と断言する気にはなれない。
対置的に考えれば、東洋人的な清濁併せ呑む度量や、神秘的な孤高の世界に遊ぶ大人性など、チョムスキーには求められない世界も確かにあるのである。言ってみれば、非常な高潔な青年的老人、それがチョムスキー、というところか。辺見庸との対談で、チョムスキーは次のように述べている。(2002年2月15日、米国マサチューセッツ工科大学にて)
チョムスキー この50年を含む前の世紀には、日本が記憶に留めておくべきことが数多くあります。何度もいうようですが、他人の犯罪に目をつけるのはたやすい。東京にいて「アメリカ人はなんてひどいことをするんだ」といっているのは簡単です。日本の人たちがいましなければならないのは、東京を見ること、鏡を覗いてみることです。そうなるとそれほど安閑としてはいられないのではないですか。 p162
話のはずみか、それとも、明確に言っているのか。「日本の人たちがいましなければならないのは、東京を見ること」と言っているが、「日本」ではなくて「東京」なのだろうか。「沖縄」ではなくて「東京」なのだろうか。やや疑問の残る対談の結末である。