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カテゴリ:西郷隆盛
薩摩藩は現在の鹿児島県だけではなく、「薩摩国」「大隅国」「日向国」の三つからなっていた。 現在は都城市などは宮崎県に属しているが、私も最近になって知って驚いたことがある。それは現在、鹿児島県に属する「志布志市」を中心とそしたその近辺は薩摩藩時代には「大隅国」に属していたと思っていたのだが当時は「日向国」だったのだ。「灯台下暗し」とはこのことか! 2ヶ月くらい前に友人のKクンから上の地図をメールしてもらって初めて知ったのだった。 そうそう、今日は「都城六烈士」のことである。 都城は薩摩藩「日向国」であり、先日ブログにアップしたように「都城島津家」の当治下にあった。 新選組や会津兵が入り不穏な空気が流れていた伏見において、維新前夜の慶応3年(1867)12月21日、斥候(敵の状況を探る役割)を担っていた都城隊士 坂元与八郎(18歳)、横山権助(23歳)、野辺納右衛門(23歳)、安藤惣兵衛(18歳)、大峰壮之助(18歳)、内藤庄左衛門(20歳)の6人が、新選組に不意に発泡されるという事件が起きた。 彼らが伏見奉行所の北にある御香宮の大手門前で、境内に不穏な動きがあるのを察知し行ってみると、新選組と思われる幕兵60人が駐屯し、内30人ほどが武装行軍を行っていた。驚いた6人は急ぎ本隊に報告のために引き返したが、その帰途、新選組の一団とかち合い、引き返す途中、背後から銃声が聞こえた。彼らは交戦せずに本隊へ帰り報告した。しかし、藩兵の間では発泡されて逃げ帰ったのではないかということになり、本営軍監の吉井幸輔が6人に尋問した。彼らは斥候の任務は敵状視察であり、戦うことではないと主張した。その2日後、都城隊が伏見から東寺に転陣になったため、同隊中では、これは6人の行動による前線から後方への不名誉な更迭との噂がたってしまった。6人は、責任をとる覚悟を固め、切腹嘆願書を提出した上で、26日深夜、東寺薬師堂で次々と自刃した。彼らの墓は京都市九条狐塚墓地にあり、その墓石に6人の中で最年少だった大峰壮之助の辞世の句が記されている。「武士(もののふ)の義の一筋に思い立ち、命は露も思はざりけり」 この事件の1週間後に鳥羽・伏見の開戦となり戊辰戦争へと突入していくが、都城隊は日頃の軍事訓練の成果を発揮したのである。(出典・平成29年度都城島津伝承館特別展、西郷隆盛と都城島津家) 都城へ移される前の京都九条狐塚墓地にあった墓 都城市都島町に撮された墓標 近くには慰霊碑もあるという (南日本新聞、2018年1月3日号) こういう形で、志半ばで思わぬことから倒れた志士も多かったのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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