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ジージの南からの便り

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2018.06.06
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カテゴリ:西郷隆盛

 
 「寺田屋騒動」は文久2年4月23日(1862、5,21)に薩摩藩の事実上のトップであった島津久光が薩摩藩の尊皇派を始末した事件であり、「寺田屋事件」(坂本龍馬襲撃事件とは別物)「薩摩藩志士粛清事件」ともよばれている。

 薩摩藩尊皇攘夷派は藩兵1000名を引き連れて上洛した島津久光を迎え、これを機に倒幕へ向かおうとしていた。ところが、久光にはその意思はなく、公武合体を目指していた。

 その時には、西郷隆盛、村田新八、森山親蔵は大阪から帰藩させるように命じて粛清しており、京都の志士の思惑とは全く考えを異にしていた。4月13日に伏見に到着した久光は、16日に入京し、朝廷から志士の始末をするように命じられた。

 こういうことになるとは思ってもいなかった薩摩藩の過激な尊皇攘夷の過激派は、憤激した。そこで有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介らは、公武合体派の関白九条尚忠とこれに同調していた京都所司代酒井忠義を襲い、これを契機に薩摩藩を倒幕派につけようとする。しかし島津久光は、その会合場所の京都伏見の寺田屋に側近の大久保一蔵(のちの利通)、海江田武次、奈良原喜左衛門を次々に派遣、説得を命じて藩士を抑えようとするが失敗する。すると久光は、上意討ちの念を含んだ意味をこめて、奈良原喜八、大山格之助など特に剣術に優れた藩士8名を鎮撫使に選び派遣する。これら8人は本街道と竹田街道に分かれて進んだ。後から上床源助が志願して加わり、計9名となった。

 23日夜、寺田屋に到着した奈良原喜八郎など4名は有馬新七に面会を申し出たが、2階からの声で「いない」と断られたので、江夏仲左衛門と森岡善助が2階に上がろうとして押し問答になった。柴山愛次郎が1階で応ずることになり有馬と田中謙助、橋口壮介も降りてきて議論になった。しかし埒があかず、鎮撫使側は、ともかく藩邸に同行するように求めたが、拒否された。そこに遅れて大山など4人も到着、奈良原は説得を続けたがそれでも埒があかず、遂に君命に従えと道島五郎兵衛が「上意」と叫んで抜き打ちで田中謙助の頭部を斬り、同士打ちの斬り合いが始まった。

 その後は悽惨な斬り合いが続き、この戦闘によって、鎮撫使側では道島五郎兵衛が死亡、森岡善助が重傷、奈良原喜八郎、山口金之進、鈴木勇右衛門、江夏仲左衛門の4名が軽傷を負った。残りの3名は無傷だった。志士では有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵の6名が死亡、田中謙助、森山新五左衛門の2名が重症を負ったが後に切腹させられた。

 その後、2階にいた尊皇派の薩摩藩士の大半は投降したが、逃亡した藩士もいた。最終的に21名の藩士が帰藩を命じられた。なお、京都藩邸で療養中であった薩摩藩士山本四郎もこれに加わるところだったので、帰藩謹慎を命じられた、しかし、それに従わなかったので、切腹を命じられた。従って前記志士8名と山本の9名が九烈士と言われている。

 この九烈士の中でも過激派とみられる中心人物の有馬新七は文政8年11月4日(1825、12,13)は薩摩藩伊集院郷士の坂木四郎兵衛の子として日置郡伊集院郷古城村(現在は日置市伊集院町古城)で生まれる。父が城下士の有馬家の養子となり、鹿児島城下の加治屋町に1827年に移住した。
剣は伊集院郷に住む叔父、坂木六郎が剣の達人だったことから子供のころから神影流を伝授されていた。
学問については14歳頃より「靖献遺言」を研究し、崎門学派の学を修めた。1843年より江戸で学び、山口菅山の門下となる。1852年には上洛の機会に梅田雲浜らとも交流する。そして1857年には薩摩藩邸学問所教授に就任する。1861年に造士館訓導師に精進。

 そういう中でも、尊皇攘夷派の志士たちと交流し、水戸藩とともに井伊直弼暗殺(桜田門外の変)を図ったが、薩摩藩の同意を得られなかったことから手を引き、結果的には水戸藩を裏切る形になった。

 1860年に町田久成の要請で、伊集院郷石谷村(現在の鹿児島市石谷町)を統治することになる。新七は石谷村を治める間に、刑法を定め、悪事を働いた者には罰として石坂(一部は現在、鹿児島市の指定文化財)とよばれる道の建設に当たらせた。また、郷士に五人組制を実施するなどの指導を行った。

 そういう文武両道、人の上にも立てる有馬新七だったが、その後も過激な尊皇攘夷運動を続け、寺田屋に集まったところを、島津久光による上意討ちにあったのだった。享年38歳。

 上の写真は日置市伊集院町にある「有馬新七先生墓碑」
昭和47年に鹿児島市南林寺墓地撤去により、郷里のここに移設されたものだ。
 下の写真は同じく伊集院町の護国神社にある有馬新七石碑。
没後110年に町の有志により建立されとものだという。


 南日本新聞に連載中の小説「曙の獅子」桐野 作人 作にもあるが、伏見寺田屋で闘死、自害した有馬新七など九烈士は暴徒と認定されたため、薩摩藩の京都菩提寺である即衆院(島津家六代当主・島津氏久が1569年に開山、現在地より南にあったが、火災で焼失し1613年島津義久が再建した)に埋葬することは許されなかった。
 
 それでは有馬新七など九烈士はどこに葬られたのか。京都伏見にある大黒寺(元は長福寺とよばれていたが、島津家18代当主で初代薩摩藩主 家久の命を受けて1615年、大黒寺と改めた)である。
ここには九烈士の他、木曽川治水工事で犠牲となった平田靱負の墓標もある。

 このあと、島津久光が目指した公武合体はならず、時代は大きく倒幕から明治維新へとむかうのだが、有馬新七などの思った方向に動いていくのである。結果的には彼らの動きが時代の流れの中で少し速すぎたのかなと思ったりもする。しかし、決して無駄ではなかったのかなとも思う。

 (参考本など 桐野作人 「曙の獅子」、 ウィキペディア情報など)





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Last updated  2018.06.06 00:00:27
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