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カテゴリ:鹿児島の歴史
祁答院の史跡巡りを済ませた一行は、さつま町へ。 先ずは、大石神社。 祭神は、島津左衛門督歳久公と祁答院河内守良重公。 島津歳久は島津家15代当主・島津貴久の3男で、義久、義弘、家久(18代当主・忠恒の家久とは別人)の島津四兄弟の一人であり、祁答院島津家(日置島津家の前身)の祖である。 祁答院良重は祁答院12代当主・祁答院重武の嫡男で祁答院氏最後(13代)の当主。 両祭神とも祁答院地方(さつま町と薩摩川内市祁答院町)を統治した武将で虎居城(さつま町宮之城)を本拠とした。 いつ創建されたかは不明とのことだが、古文書類によると寛永年間には「歳久石塔(歳久供養塔)」として存在していたことが確認できるが、社殿を有するようになったのは幕末から明治にかけての頃と思われる。神社の建つ地は、祁答院領主であった歳久が鹿児島往還の際に休息をとっていた場所だと言われる。社名の「大石神社は「御石(おいし)」が訛ったものだと言われ、武の神や安産の神として崇敬されており、妊婦が参詣の際には境内にある石を拝戴し、出産後に拝戴した石ともう一つ新たな石を添えて奉納すという風習も今に伝わっている。 鳥居には島津家の家紋が見える。 大石神社境内に「嘉元(かげん)の三重層塔」がある。 この石塔は大石神社と南方神社の間にあり、古くは鶴田の大願寺から大村の龍盛寺に移され、明治二年の廃仏毀釈後、現在地に撮されたという。 第一層の梵字は二十の月輪の中にあり、古いものと考えられる。第二層はバク(釈迦如来)を四面に配してある。第三層は彫字がないし、不整形であり、他の石を組み合わせたと考えられる。 基壇正面中央格狭間には「嘉元二(1304)大願・・・」の刻字が読み取れる。おそらく弘安の役の戦没者供養のため建てられたものだろう。 9月の秋季例祭は別に「金吾様祭り」と呼ばれ、「金吾様踊り」と総称される各種郷土芸能行事(兵児踊り、俵踊り、虚無僧踊り、バラ踊りなど)が奉納される。 参考資料 当日の配布資料他 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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