|
カテゴリ:鹿児島の歴史
鹿児島市吉野から稲荷町、清水町、春日町を経て錦江湾に注ぐ稲荷川上流にある実方橋を訪ねた。 現在は近代的な橋になっているが、平成5年(1994)8月6日、鹿児島地方を襲ったいわゆる「8,6水害」まではここには、鹿児島県最古の石橋があったという。 現在の新しい橋の表示によれば1995年の3月に完工したとされる。 下の写真はネットから拝借した8、6水害により流出する前の「実方太鼓橋」である。 この太鼓橋はあの有名な長崎の眼鏡橋が架けられた頃と同じ寛永年間(1624~1643)の1640年頃に架けられたのではと言われる。アーチ直径は約7、3m、幅員は約3,8mであった。 当時は鹿児島城下と重富方面を結ぶ重要な道路に架けられた橋だった。 桐野利秋や別府晋介などもこの橋を何回も渡ったことだろう。 桐野利秋の誕生地碑から向かい側の小高い山に神社が見えた。この日訪れようと思っていた実方神社どろうと思い訪ねた。同じ敷地には地域の公民館あり、地域のコミュニティの中心にもなっているのだろう。 参拝のあと、本殿に背を向けると鳥居越しに街が見えた。 境内には石造物が一列に並んでいる。 この二つは石の仏像の一部である。二つとも首がない。 廃仏毀釈のときに打ち捨てられ、その後掘り出されたりしてここに安置されたものだろう。 これまで訪れた鹿児島の神社には、神道とは違うこういう仏像などが安置されていることが多い。 その右隣には「二十三夜塔」。これも完全ではない。 二十三夜塔については、拙ブログ2015年10月19日の「田の神さあ」と「二十三夜待供養塔」で鹿児島の山田で見た二十三夜塔のことを書いたが、これが二例目である。 ここで二十三夜塔について復習。 旧暦 1月・5月、9月の23日の夜、宿を決めて集まり、ふるさとを遠く離れた夫や子供たちの無事を祈る「二十三夜待」という行事は古くから各地で行われている。この行事では、離れている人の持ち物等を飾り、酒肴や23個の団子を供え、一晩中食べたり、飲んだり、歌や踊りをして月の出を待ったものだった。 ここ実方でもこの二十三夜待の行事が行われていたということだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[鹿児島の歴史] カテゴリの最新記事
|