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カテゴリ:旅行・ドライブ
鹿児島県湧水町栗野の「松尾城跡」の見学を終わった私たちは、宮崎県えびの市に向かった。 隣県である宮崎県の南部はその昔、日向という呼び名で薩摩藩に属していた。 宮崎県えびの市での最初の訪問は「島内地下式横穴墓」である。中世の松尾城から古代の墳墓への先祖返りである。それには少しだけ訳があって最近 地元の南日本新聞に「隼人起つ 乱から1300年」という連載記事が5回にわたって連載され、その中で古代の南九州の独自の生活が紹介された。その記事からの連想で私たちの「高校同期生歴史会」で古代史のことが話題になって、今回も同行したKくんを中心に少しだけ古代史をかじり始めているからだ。 そういうことで人里離れた? えびの市大明司にある横穴式石室系板石積石棺墓が保存された建物に到着 。 板石積石棺と横穴式石室との折衷型という日本唯一の遺構が発見されたことから、そのままの姿を保存し、実物展示をするためにつくられている。 島内地下式横穴墓群139号墓の跡。 139号は調査主体・えびの市教育委員会、調査協力・鹿児島大学総合研究博物館で平成26年10月20日から27年1月30日に発掘調査された。 この島内地下式横穴墓群には墳丘はなく平らになっていた。現在は調査発掘の後、梅たれられ整地されている。 5世紀初めから7世紀前半の古墳時代に、南九州の東側につくられた地下式横穴墓は、墳丘は造らず地下の「玄室」に遺体を葬る九州南部特有の墓だといわれている。 この墳墓は、玄室南側に羨道または横口と呼ぶ出入口と門が設けられ、北面の中央に大きな石を設置してある。板石の内側には赤い色の顔料が塗られており、身分の高い人たちの墓だったと思われる。 これは1500年前の大量の副葬品を納めた地域首長墓と思われるが完全な状態で発見された。 えびの市ホームページによると「基本情報」として下記のことが書いてある。 ●年代は5世紀末~6世紀初頭=古墳時代中期末~後期初頭 ●九州南部に特徴的な地下式横穴墓(墳丘・埴輪などはない) ●島内地下式横穴墓群中の墓としては、玄室は最大級 ●国の重要文化財にも指定されている島内地下式横穴墓群の中でも最多・最上位の副葬品が完全な状態で 出土 ●男女と考えられる二人が埋葬。追葬はなし 「特質すべき点」として下記のように書いてある。 地位の高い首長層の古墳の場合、未盗掘で発掘調査されることは極めて稀である。土にも触れず通常では腐ってしまうような繊維や革などが多量に残存している。金属器の状態も良好で、有機質も金属も良好な残存というのは稀である。同レベルの副葬品の組み合わせを持つ古墳は希少であり、全国的にも各県あるいは旧国に一基程度あるかないかのものである。 ここまで島内地下式横穴墓群について書いてきたが、古代史における大和王朝のなかのえびの市、大きくは日向の位置づけを見ないと本当のことはわからない。機会をみてそのあたりのことは書くつもりである。そいう意味ではこの項は中途半端になってしまった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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五世紀~六世紀!頃のお墓ですか・・・
なんの知識も無いわたしは、ひたすら、驚嘆しています。 (2020.07.26 12:49:17)
本当に珍しいものを紹介され素晴らしいことです。盗掘がなかったとは、非常に良い土地柄を忍ばせます。ご夫婦と思われる男女が一緒に埋葬は、どのような経緯でなされたのか気になるところです。
(2020.07.26 14:08:04)
こんにちは
近年、発掘調査したのですね。 (2020.07.26 15:05:15)
クマタツさん今日は~!!
いつもコメントをありがとうございます。 嬉しく拝見しています。 南九州の規模の大きい古墳時代の 遺跡としては、宮崎の西都原古墳群が有名ですね。 ここは古墳の形態や大きさ、数量が半端じゃありません。 また熊本はいわゆる「彩色古墳」が多いことで有名。 「チブサン」古墳などは極彩色です・ また阿蘇カルデラの中にも幾つかの古墳があり、 阿蘇神社を祀る古代豪族阿蘇氏の所領だったの でしょう。 それらに比べたら、薩摩は権力の集中はまだ 弱かっとのだろうと印象を読んだ文章から 感じました。素人の直感なのでお許しを。 (2020.07.27 11:30:42)
おはようございます。
お買い物中毒”悪女”です。 今日の調子はいかがですか? コロナウイルスが広がっているので気をつけてくださいね。 応援ポチ☆彡 またブログ遊びにきますね♪ (2020.07.27 13:59:33)
クマタツさん今晩は~!!
明朝旅に出ますので、感じたことを簡単に。 図を見ると元々墳丘はあったと見えたのは誤解でした。 ただし発掘調査がされているので、その際の 正確な調査報告書が出されているはずです。 多分霧島火山群の噴火によって周囲は かなり火山灰が積もった地層だと思われますが、 2体の遺体の跡が示されているところを見ると 人骨が残っていたのでしょうか。 通常火山灰は酸性が強いために、人骨は溶けて 無くなるのが普通なのです。 副葬品には鉄製品が多いように見えます。 刀は直刀ですね。そして兜と鎧のようなものも ありますが、鉄製でしょうか。革製だと腐るように 思います。漆でも塗られていたら別ですが。 また馬具の一部、帯の一部の金属製のバックル 様のものも見えます。 これは大和朝廷との関係もさることながら、 古代の九州北部で起きた磐井の乱のように 強力な地方豪族の存在が考えられますがどうでしょうか。 古墳時代後期の鉄がどこから来たかが問題です。 まだ九州南部で製鉄技術はなかったはず。 朝鮮半島→九州北部→九州南部のルート及び交流関係は どうでしょうか。<長文深謝> (2020.07.28 23:31:57) |