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ジージの南からの便り

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2021.01.14
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カテゴリ:西郷隆盛


 このシリーズは2018年8月11日を第一回として、8月23日、9月4日と飛び飛びで3回まで書いているが、その後「島津義弘没後400年」などもあって、途中で止まってしまった。

 年も改まったので、一念発起! 続きをシリーズで書いてみたいと思っている。

今日は、「篠原 国幹」と「淵辺 高照(群平)」
篠原国幹(しのはらくにもと) 1836~1877(明治10年3月4日 没)享年42。
記録奉行の家に生まれ、通称は藤十郎、冬一郎。
剣は薬丸兼義に薬丸自顕流を学び、謹厳寡黙、言行一致でその後の戦いで全軍を統率し、陸軍では儀表(手本・模範)と仰がれた。
文久2年(1862)有馬新七らと挙兵討幕を企てたが島津久光の鎮圧にあって失敗。(寺田屋騒動)
薩英戦争で砲台守備に出陣、戊辰戦争で薩摩藩の城下三番小隊長となって鳥羽伏見の戦いに参戦する。
戊辰戦争後陸軍少将。近衛長官。明治6年には陸軍少将、近衛兵司令官を辞職し帰鹿する。
藩校造士館で和漢学を修め、文武両道を究め私学校が創設されると総監督として子弟の教育にあたった。
西南戦争では一番隊長を務めた。

 明治10年3月4日、早朝政府軍第2旅団の野津隊が悪天候を利用し、吉次本道から薩軍の奇襲を試みた。これを受けた篠原は、村田新八とともに川尻からの増援部隊を基幹として反撃に出た。
このとき同郷の出身で、元部下の近衛歩兵第1連隊第2大隊長・江田国通少佐は濃霧と雷雨の中、赤裏の外套を翻し銀装刀を振るい陣頭に立って部隊を指揮する篠原の姿を前方に認めた。すぐさま江田少佐は射撃のうまい兵に赤裏の外套を目印として狙撃を命じ、弾を数発受け篠原はその場に崩れ落ちた。
篠原を失った薩軍は、復讐心から逆に戦意を高め、江田少佐を斃し、官軍を原倉まで退けた。



 南洲墓地の中でも、一際目立つ「渕辺高照」の墓標





 参考資料  「あるく みる いこう かんまち本」 上町維新まちづくりプロジェクト
       wikipedia  「篠原国許」  他





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Last updated  2021.01.15 08:38:41
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