テーマ:今が旬の話(413)
カテゴリ:昭和恋々
私が行水を使ったのは、戦争が終わってほんのしばらくの間だった。 戦災で街が全部焼けて、新しい銭湯が開かれるまでと言えば、昭和20年の夏から数ヶ月ということになる。 8月から9月までは、朝、水をいっぱい張った盥(たらい)を日向に出し、半日かかってぬるま湯になった夕方ごろ、子供たちはこれを使って体を洗う。 10月に入ると、さすがに日向で温めただけだは済まなくなり、釜に沸かした熱湯を補った。 これが11月になると、もう寒くて我慢ができなくなり、小さな金だらいに入ったお湯で手ぬぐいを絞り、体を拭くだけになった。 冬になったらどうしようと心配していたら、そこはよくしたもので、木枯らしの音が耳につきはじめたころ、待ちに待ったトタン葺きの銭湯が焼け跡に建ち、子供たちは歓声を上げて、満々とお湯が溢れる浴槽に殺到した。 だから私の行水の記憶は、ほんの数ヶ月しかない。 けれど私には、あのころ母や姉が行水を使っていた憶えがまるでない。 母たちは、どうしていたのだろう。 浮世絵の美人入浴図を見るたびに、半世紀前の不思議が思い出されるのである。 *「昭和恋々」*久世光彦 先日、夫と岡山へ桃を採りに行った。 蜜柑狩りや葡萄狩りという言葉はあるが「桃狩り」って言うのだろうか。 昔は桃の木を植えている家もけっこうあった。 そして、行水の時に桃の葉を盥に浮かべた。 そんな会話を夫とした。 そして思った。 新潟県中越沖地震で被災された方が、いまだに、風呂に不自由していることを。 この暑い夏、風呂がないことは、どんなに辛いことだろう・・・。 もし、昔なら、水道が復活していなくても井戸水を汲んで、 ガスが復活していなくても、日向水で行水が出来たのにと・・・。 木陰になる大きな木や、 食料のための田畑、 いざという時に使える井戸水、 沐浴が出来る川のある暮らしは、震災がなくても取り戻さなければならないと思う。 それは、ほんの取るに足らないものかもしれない。 たとえば・・・私たちは、あの日のように雨や風の音を聴くことが、いまあるのだろうか。 このごろみたいに、夜は明るくていいのだろうか。 春を待つという、懸命で可憐な気持ちを、今どれほどの人が知っているのだろうか。 ・・・あの頃を想うと心が和むが、いまに還ると胸が痛む。 久世光彦 ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★8月1日*八朔(はっさく)*UP ・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.03.10 18:06:02
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