テーマ:ニュース(100232)
カテゴリ:時事ネタ・主張
大正時代末期から昭和初期にかけて、大阪が*“大大阪(ダイオオサカ)”*と呼ばれていたことをご存知だろうか。 今でこそ、吉本・たこ焼き・阪神タイガースだけの街と思われている大阪だが、この時期は人口が東京を上回り、文化・芸術・産業の中心としてモボ&モガが闊歩する華やかで活気にあふれていた黄金時代だったらしい。 大阪、中ノ島には、そんな時代の多くのレトロビルが残っている。ダイビルもそんな時代を見つめ続けた。 大正ネオロマネスク様式の重厚なレンガタイルの外装に、正面玄関軒上の「鷲と少女の像」を始めとする、建物内外の浮き彫りの数々。 名建築家渡辺節の代表作だ。製図主任は若き日の村野藤吾。 構造設計の権威内藤多仲により当時既に耐震設計を施していた点でも画期的!! 長年、商都大阪のシンボルとして親しまれていた。 それが、まもなく取り壊されるという。 専門家の間では重要文化財クラスとされる大正時代の名建築を壊していいものだろうか。 大阪府は今、大阪水都というキャッチフレーズで、中ノ島界隈をアピールしている。 けれど、いくら京阪中ノ島線が出来ようが、大川に観光船や、アート船「ラッキードラゴン」を浮かべようが、川ベリの景色がきれいでなければ、魅力がない。 1920年代の大阪が大大阪(だいおおさか)と呼ばれていた頃の風格を持つ、ダイビルこそ、なによりも観光のウリになると思うのに・・・。 重要文化財などに指定して、このダイビルを残すことは、出来ないのだろうか。 ■「壊される運命」あきらめぬ■ 所在地: 〒530-6591 大阪市北区中之島3丁目6番32号 地下鉄四つ橋線「肥後橋」駅下車 徒歩4分 ■大阪のレトロな建物■ 江戸時代の大阪は、商業的な繁栄をほこった豪商は莫大な富を築きあげ、 街の自治を任される程の存在になっており寺子屋などの教育機関をも手がけていたようだ。 このように民間が力を持っていた事で、大阪は文明開化以降も大きなイニシチアブを握る事ができた。 明治時代から昭和時代初期は、政府が造幣局や砲兵工廠を置き、金属工業や繊維産業を中心に商社・卸売・新聞など様々な商工業が発展し 「東洋一の商工地」と称され、多くの企業が勃興した。 メセナ(企業による文化活動への投資)が活発に行われ、 特に関東大震災後には、東京からの移住者も加わった事やなど 大阪市は当時の東京市を人口・面積で抜き、大阪市は日本最大の都市へと成長、世界でも第6位の都市となった。 当時大阪は「大大阪」という呼称で親しまれた様だ 「モダンの稜線」より ・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★10月7日*ドンゴロスいっぱいの松茸/ごめんね、母さん・・・祭のごちそう* ・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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