テーマ:■大阪探検■(691)
カテゴリ:八百八橋散歩
中之島は、堂島川と土佐堀川に挟まれた細長い島だ。 例えば、土佐堀川で荷物を積んで、地図で真上の堂島川に渡るには、どうするのか? 今ならエンジンが付いた船で簡単に渡れるが、かつては手でこぐのだから、なるべく遡るのは避けた方がいい。 そこで土佐堀川と堂島川を繋ぐ中之島を縦貫する水路、堀川=中之島掘割があった。 ▲■土佐堀川と秋月橋と朝日新聞大阪本社の社屋■ 土佐堀側、左端が秋月橋、白壁が本社の長屋門、右端は旅館「西照庵」。(株式会社朝日新聞社所蔵) かつてあった、■今はない西横堀川■から出た船が、 ■土佐堀川■を渡り、 中之島掘割を通り ■堂島川■を渡り、 ■堂島掘割(梅田入堀川)■に入る。 そこから大阪駅に船で荷物を運び、大阪駅からは、列車を使うという風になっていたそうだ。 ■中之島を縦貫していた中之島堀割。■ 中之島堀割は土佐堀川から堂島堀割に入るための捷路という意味合いが強く,大阪駅の荷揚場廃止とともに埋め立てられ,姿を消した。 中之島掘割には、橋が架かっている。 一つは、「秋月橋」で、もうひとつは名前が書いていない。 そこで調べてみると、 ■中之島堀割ノ橋ヲ、秋月橋、 中島橋ト云、■ とある。 中之島橋というのか、と思っていたら、■比丘尼橋■という記述もある。 いまの中之島は貞享年間まで現在の日本銀行支店の西方に堀割があって、 これによって堂島川と土佐堀川の水が連絡し、 この堀割から東を上中之島、西を下中之島(肥後島)と称し、 両島を東西に結ぶ比丘尼橋が架けられていた。 (▲この橋はばら園橋。) 中之島掘割は、こんな感じだったのだろう。 ■セピア色の写真はここからお借りしました。■ (右、土佐堀川、左、堂島川) 中之島の東の方には、バラ園になっている小さな島がある。 (セピア色の写真) 1766年(明和3年)、当時の中之島東端に■「山崎ノ鼻」■と呼ばれる新地が埋立造成されて遊興地・景勝地となった。 1891年(明治24年)に大阪市初の市営公園として整備され、 1921年(大正10年)に行われた大川の浚渫で出た土砂の埋立により、現在の形状となった。 なぜ、離して作ったのか? 同じ埋め立てるなら、繋いだ方がいいのにと思っていたが、船が通りやすいようにわざわざ離したのだ。 ここは、■東横堀川■があり、通路を通れば■今はない天満堀川■に繋がっている。 こんな形で中之島堀川もあったのかと納得した。 「みをつくし料理帖・特別巻:花だより」で江戸時代の大坂の地図があり、 そこに中之島掘割」が!! ■川の痕跡巡り■ ■西横堀川の痕跡と金屋橋■ ■難波新川の名残り■ ■天満堀川跡と太平橋■ ■梅田入堀川跡と出入り橋■ ■廃川跡を行く■ ■古代の運河 古市大溝■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.04.19 22:44:38
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