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5月18日(土)、古い町並みの残る奈良県・五條市に行き、ガイドさんの案内でまち並みを見てきた。 奈良県五條市は大阪府との県境の金剛山の南麓の小さな盆地の町。 (▲吉野川) ■五條・地名■ 五條市は盆地で北の金剛山の南斜面から多くの谷の水が五條市を東西に横断する吉野川に流れ込んでいます。 その吉野川の支流が上流から宇智川、内の川、 西川、 東浄川、 寿命川と5本あり、これがわずか1.5kmほどの間に並んでいます。 金剛山から5本の小川が流れ込んでいる、ということから五條の地名がつけられたのではないかと思われます。 なお、市内にたくさんある御霊(ごりょう)神社がなまって五條になったという説もあります。 五條市全体の古代からの地名は宇智で、50年前の町村合併の前は宇智郡であったのが、その時の中心の五條町の名前が今の五條市の名前になったのです。 宇智に似たような「宇」のつく地名に、宇冶、宇陀、宇佐、宇部、宇品などがありますが、これらはすべて谷間から川が流れ出す盆地や三角洲の地名のようです。 ■吉野川の近くにあり、そこへ流れ込む水路のような小さな川が何本もあることも■ 五條新町の景観を面白いものにしています。 この時は、川にはほとんど水が流れていませんでしたが、 川ギリギリまで建物が立ち、 足場を作って川面にせり出すように 家を広げていたりするのが楽しいですね。 今は、吉野川は、この向こう(階段の所が堤防)に流れているが、昔は、手前まで水が来ていた。 かつては石垣のところまで水が来ていた。 吉野川には三十石船や奥吉野から木材を運ぶ筏(いかだ)流しも見られ、水陸交通の要地でもありました。 ▲道路のすぐそばに船着き場があった。▼ 西川にかかる 6 鐵屋橋のすぐそばにあるのが、 「餅商 一橋」。 大正時代から続く、いかにも古そうな、このお店、最近閉店されました。 「新町橋」と「しんまちばし」。 東にあたる方に漢字を 西にはひらがなであらわしたそうだ。 そうすることで、夜暗い時でも、方角が分かるからだそうだ。 ■五條は古来さまざまな土地への交通の要でした。■ 奈良、和歌山、河内長野、十津川、あらゆる場所へ続く旧街道が、現在の五條の本陣交差点で交差しました。 交差点にはかつての繁栄を偲ばせる立派な道標が残されています。 交通の要衝地だったゆえに、数々の歴史の舞台ともなりました。 なかでも幕末には、天誅組が尊王攘夷を掲げ、徳川幕府に対して武装蜂起した場所としても知られています。 五條から南へ鉄路を伸ばす五新線の計画も、多くの人々の期待を集めたものでした。 しかし昭和57年、開通することなく工事は全面中止に。 新町通りを横切る高架跡は、鉄路に夢を馳せた人々の思いを静かに今に伝えています。 幻の「五新鉄道」風光る はるな (▲右部分、広い格子) 商いをしていた町家には、通りに面して設けられた格子の形にも特徴がある。 多くの町家に、間隔が広い格子、狭い格子、その中間にあたる幅の格子と、3種類の格子が存在している。 幅が広い格子は店先部分にあたり、その奥に並べられた商品が見えやすい構造に。 (▲左、狭い格子右側、中間の格子) また間隔が狭い格子の向こう側は住居部分にあたり、生活の様子が通りから見えにくいようになっている。 そして、店先部分の格子と住居部分の格子との、ちょうど中間ほどの幅の格子は、勘定をする帳場に用いられた格子である。 (▲五條代官所跡) 1870年(明治3年)、宇智郡五條村(現五條市)に置かれていた五條代官所に五條県が設置された。 その後、紀伊国内の高野山領、大和国吉野郡十津川郷を管轄した。 しかし、翌年の第1次府県統合により廃止された。 五條という町を今回初めて知ったが、昔は大いに繁栄していたようだ。 にほんブログ村 ・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.05.30 00:59:19
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