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カテゴリ:国内旅行
■2021.4/7(水) ■鵜戸神宮(うどじんぐう)■、■油津(あぶらつ)■の後、飫肥(おび)へ。 日南市の中心に位置する飫肥(おび)は、明治初期までの280年間、飫肥(おび)藩・伊東氏の城下町として栄えた場所。 江戸時代の武家屋敷や商人町が今なお、多く残る美しい歴史の町。 ガイドさんは、コロナ禍で休みなので、この地区をふたりで廻った。 その美しい町並みから「九州の小京都」と呼ばれる飫肥(おび)地区。 ●まずは、飫肥(おび)城大手門。 1871年(明治 4 年)に取り壊された後、1978年(昭和 53 年)、樹齢 100 年の飫肥 杉を使用して復元された。 ●飫肥城(入城無料)の中にある、飫肥藩ゆかりの資料が約 220 点展示保管されている飫肥城歴史資料館。 主な展示品は、甲冑、 刀剣、武具など。 場内には、他にも樹齢 100 年以上の飫肥(おび)杉を使った武家屋敷松尾の丸もある。 ▲飫肥(おび)城の空堀。 ▲塀の裏につっかえがしてある。 これははじめて見たが、何の効果があるのだろう。▼ ▲ガイドさんがいたら、「このつっかえ棒は何のためですか?」と聞けたのに・・・。 ●旧本丸跡へ続く石段。 まっすぐに伸びる飫肥(おび)杉が印象的。 ■飫肥(おび)■ ●地区内には飫肥城跡のほか、五百禩(いおし)神社、振徳堂(藩校)、小村寿太郎生家などがある。 豫章館(よしょうかん)は、宮崎県日南市にある市指定の文化財の歴史的建造物である。 最後の藩主伊東祐帰(すけより)が住んだ邸宅である。 ( ▲豫章館の庭。) 豫章館の名は邸内にあった樹齢数百年の大楠にちなんで名付けられた。 大手門前に位置して薬医門と屋根付きの堀に囲まれた屋数は飫肥藩で最も格式が高い。 ( ▲豫章館の庭。) 屋敷は母屋と雑舎、蔵二棟に加えて御数寄屋が作られている。 母屋はL字型に6部屋を配置しており、そこへ千鳥破風の屋根を構えた玄関は、主玄関と脇玄関があり、主玄関の入り口には「庵木瓜紋」と呼ばれる伊東家の家紋が、屋根瓦には「庵木瓜紋」に加えて「月星九曜紋」がある。 ( ▲豫章館の庭。) 屋敷の屋根は、茅葺きとなっており、下屋根は飫肥(おび)瓦で、台風時の強風や豪雨に備えて漆喰で止めた瓦葺きとなっている。 建物は良質な飫肥(おび)杉で作られており、特に前庭に面する廊下の柾目板には樹齢数百年のものが使われている。 飫肥(おび)は高温多雨な環境のため床下が高くとられている 。 ▲明治の外交官、小村寿太郎の生家があって記念館になっていた。 ●飫肥城から城下町へ向かう途中の後町通りの水路を気持ちよさそうに泳ぐ錦鯉たち。 飫肥(おび)城下町は碁盤目状の屋敷割となっており、それに沿って作成された水路は、かつて防火用水、生活用雑水等に使用された綺麗な流れだった。 風呂を沸かすために使用されたとも言われているそうです。 その後年代を重ねていくうちに水路は崩れてしまったそうですがここ近年修復を希望する声が高まった事によって水路の修復を行う事で城下町にふさわしい水路が蘇り鯉を泳がせている。 ▲参勤交代の時、大坂ー伏見間に使った御座船。▼ 朝鮮通信使の場合、大坂に到着すると、木津川の河口部で外洋船から川御座船に乗り換え、土佐堀川を経て難波橋を目指した。 (▲大阪の土佐堀川、堂島川と橋。) 飫肥(おび)藩の参勤交代も同じようなコースだったのだろう。 ▲宿で泊まる最後の日。宿の部屋から見た景色。 この日、コロナの影響で宿泊客は5人。 夕食と朝食がバイキング出来なくなり、和定食になった。 大阪のコロナ感染者総数は、878人と、急激に増加している。 (1年前のきょう4/7、大阪の感染者は、53人だった)。 ちょうど1年前に、初めての「緊急事態宣言」が、出されている。 ◎走行距離:64km ●12613歩 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2021.05.13 00:03:50
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