テーマ:懐かしい昔の話(548)
カテゴリ:昭和恋々
■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■
■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<2>:庭に防空壕■ ■7月9日(空襲の夜) 「紀伊水道より紀淡海峡数十機、大阪方面へ来襲」とラジオ放送。 子どもを起こしました。 すぐ電灯は消えましたが、焼夷弾の音と共に、周りが赤くなり、良く見えました。 子どもたちに避難の用意をさせ、 「子ども連れでは、お位牌は守れません。 落ち着き次第買わせていただきます。」と言いながら、仏壇の戸を閉めました。 用意の物をおなかに巻き、ミシンを予定通り埋め、その上に水をと思いましたが、糸のようにしか水がでませんでした。 納屋が燃えてきましたので、5歳と生後50日の赤ちゃんを乳母車に乗せ、ご飯とラジオを乳母車に乗せました。 「子どもたちに気をつけて。」と言って下さるご近所の方々の親切な声を後に、主人の疎開先へ行こうと思いました。 大寺さんの(開口神社)の所まで、来た時、大寺さんの大木の榎が燃えて通れずに引き返しました。 途中で乳母車が壊れたので、仕方なく三男(生後50日)を毛布に包み、横抱きにして、二女(5歳)に洋傘の先を持たせ私は、柄を腕にひっかけて歩きました。 時々、子ども達がはぐれないように体育用の笛を吹いていました。 殿馬場国民学校へ引き返す途中に、消音用の銀紙がちらちら舞い落ちてきました。 そして、焼夷弾の赤い火も見えました。 気がつくと長女がいません。 仕方なく笛を強く吹きました。 「お母ちゃん」と言う長女の声に生き返った思いをしました。 殿馬場国民学校の雨天体操場について、 「やれやれ」と思う間もなく 「危険だから出るように。」との事で、天神さんへ、歩いて行きました。 境内の玉垣に腰を掛け、 「親子五人離れない様に、お父ちゃんが、探しやすいように。」 と子ども達に言い聞かせ、親子五人固まって、西側の家の棟の焼け落ちるのを見ていました。 (▲■散歩で見つけた昭和レトロな防火用水■) 抱いている毛布が熱くなり、何度も防火用水に浸しました。 三男は鳴き声一つ立てないので、死んだのではないかと何度も顔を見ました。 夜も明け、火も一段落したので、家を見に行きました。 家は全勝、ガス管のみ、柱のように立ち、中には熱気で入れませんでした。 行き先を書きたかったけど、板切れ一つ燃えつけてありませんでした。 仕方なく、人目につきやすい花田口筋に五人で立っていました。 焼け野原に立っていると、主人が自転車で深井から来てくれました。 そして、五人の無事を喜んでくれました。 すぐ二条通りの友達の家に行き、一服させていただきました。 その後、安井町の遠縁へ行きました。 疎開した学童のほとんどは、罹災者だったので、学校より一時家族に会わすとの指示で、主人が二男を連れて帰って来ました。 「泊めてくれ」と言う二男の声も聞かず、 「一人でも生き残って欲しい」と思う気持ちで、金岡国民学校まで送り届けました。 学校が見えると振り返りもせず、門の中に走って行った二男の姿を今も思い出します。 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。 書いたのは、この家の主婦、晶子。 以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日 被災場所:堺市戎町・全焼 ★家族★ ★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員 ☆妻: 晶子 34歳:(記録) ☆長女: 信子 15歳:女学校4年 ★長男・ 良一 12歳中学1年 ★二男: 清二 9歳国民学校4年 ☆二女: 洋子 5歳 ★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名) にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.07.14 00:01:24
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