テーマ:懐かしい昔の話(548)
カテゴリ:昭和恋々
■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■
■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<2>:庭に防空壕■ ■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後:空襲・7.9■ ■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<4>:戦後の暮らし■ ■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<5>:終戦後の暮らし・焼け跡で野菜を作る■ 奈良県・富尾のお米屋さんまで行って、糠を買い、ナンバ粉(トウモロコシの粉)を混ぜて、パンを作ったり、ハコベを取って、雑炊に混ぜたり、ナンキンのつるの皮を剥いて食べたり サツマイモの*皮*を剥いたりして食べました。 (*注*サツマイモの皮を剥いて食べるとあるが、ツルのことか?) 外米の配給の時、断る人がありましたので、待っていて分けてもらいました。 長男(中一12歳)は、*イモ畑の取り終わった畑に行き、ひげ根を拾い、*コンロで焼きながら食べていました。 (注*落穂ひろいのイモ版) 二男(9歳)は堺東から大浜まで歩いて行き、海岸でアオサを取ってきてくれ、乾かして食べました。 カタツムリを焼いて食べたり、樫の実やヒシの実を取ってきて食べました。 「白い乳の出る草は食べられる。」と教えてもらい、野草を取ってきて食べました。 三男(昭和20年生まれ)は乳不足のため、栄養失調になったり、腸炎になったり高熱を出したりしました。 昭和21(1946)年の春になって、焼け跡で、畑を作りました。 暗いうちに起き、堺市戎町の焼け跡へ畑仕事に行きました。 通学(長女・15歳、長男・15歳、二男・9歳)、通園(二女・5歳)の前に一時帰宅し、再び、畑に行きました。 レンガや瓦の片づけをし、レンガ色の畑を作りました。 鍬の持ち方も知らない私が、畑を作りました。 空き箱に車輪を付けた車に、下肥(大小便)と三男を乗せて行きました。 バケツに縄をつけ、井戸水を汲み、水やりをしました。 焼け跡のお近くの家の下肥(大小便)もくませてもらい、畑に使いました。 三男が少し大きくなり、何になりたいかと聞いたら、 「お母ちゃんの作ったナスビを売りに行く」と言ったことがありました。 子どもの教育に気を配れるようになったのは、終戦二年後くらいからです。 よく頑張ったなーと今も思います。 *注*は、天地 はるなの書いたもの。 *ゴマ塩が欲しいと便り終戦忌 *夏の日の学徒動員握り飯 *敗戦やモンペで作ったいもの味 *終戦忌知らず育って古希過ぎぬ 以上 はるな 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。 書いたのは、この家の主婦、晶子。 以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日 被災場所:堺市戎町・全焼 ★家族★ ★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員 ☆妻: 晶子 34歳:(記録) ☆長女: 信子 15歳:女学校4年 ★長男・ 良一 12歳中学1年 ★二男: 清二 9歳国民学校4年 ☆二女: 洋子 5歳 ★三男: 謙三 生後後50日(以上、仮名) にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.07.24 00:15:11
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