カテゴリ:囲碁
本日は今年最初の囲碁例会の日。梅田まで銀輪で往復。 藤原家隆と言えば、藤原定家と並ぶ鎌倉時代の歌人。定家の父、藤原俊成に和歌を学んだというから、定家とは兄弟弟子ということになる。後鳥羽上皇(後鳥羽院)も俊成に師事しているから、後鳥羽院とも兄弟弟子である。 その家隆が嘉禎2年(1236年)、病により出家し、「夕陽庵」という庵を結んだのが、この地であるという。翌嘉禎3年4月9日、夕日に向かって端坐合掌して逝ったということらしい。享年80歳。 上の顕彰碑は享保6年(1721年)家隆を慕う秋野坊盛順が建立したもの。風化が著しく現在は判読不能。石碑前にその全文を刻した金属パネルが設置されている。 契りあれば 難波の里に 宿り来て 波の入日を 拝みつるかな 上は、家隆がこの地から難波の海に落ちる夕日を見て詠んだという歌。この地を「夕陽丘」と呼ぶようになったのはこの歌によると伝えられている。 さて、顕彰碑全文は上の通りであるが、閑な人はクリックして拡大画面で丹念にお読み戴くとして、塚の前の説明板にその要旨が記載されていますので、面倒な方はこちらでお済ませ下さい(笑)。 では、お正月ということで、後鳥羽院、定家、家隆の百人一首の歌を下に記載して記事の締めと致しましょう。百人一首でもこの3人の歌は並んでいるのであります。 97 こぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 98 風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは 99 人もをし 人もうらめし あぢきなく 後鳥羽さんは、上の歌で、家隆は情のあるいい奴だが、定家は薄情な奴や、とでも言っているのでしょうか。まあ、そんな意味なら、定家がこの歌を採用する筈もありませぬが、そんな風に読めなくもないのが和歌の和歌たる由縁でもあります。
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