歌集紹介『銀河最終便』
五月の風に吹かれながら、ベランダで読んだ『銀河最終便』望月祥世氏の第一歌集である。一ページに八首。読み応えがある。氏は『開放区』の同人であり、またネット上で活躍されている。私はよく氏のホームページ上で氏の短歌を読ませてもらい、たくさんの勇気と感動をもらってきた。クレッシェンド・デクレッシェンドどうしろというのだ降ったりやんだり雨はバルトーク・ベラ、ベラ・バルトークいずれでもいずれにしても生き難き生覚悟の破調と、感覚を研ぎ澄ませて直感的に選択された言葉の響きが、氏の歌のなかで光る。致死量の愛を点滴するように深夜に雫する雨の音遠く去る鳥には鳥の歌があり水没樹林に降る雨がある「致死量の愛」 この言葉には参ったな。氏の相聞はあるときは雨、あるときは花や音楽、そして宇宙といった姿で詠まれているが、そんななか、この一首は珍しく熱い血を感じた。それも地球に致死量の愛を点滴している。すごい。接線を一本引けば現れる まだ生傷の絶えない地球眠ろうとしてもなんだか眠れない ふつうに戦争している時代仰ぎ見る文月の空の流れ星 戦場に人は撃たれていたり失って滅びていつか消えてゆくそれでも人は夢見るさくら日常はそんなときにも日常であったであろう投下直前野のはてにタンポポ枯れて綿毛飛ぶ 日本に帰りたいしゃれこうべ女性歌人にとって難しいテーマを、氏はまっすぐに見据えている。この勇気と力が私にはない。致死量の愛とは、自分という小さなものを突き破って地球規模、いや宇宙規模の愛の量なのだろう。この歌集の意味がだんだん見えてくる。しかし、氏の目は遠くばかりを見ているのではない。華麗なる変奏曲を聴くように春の逃げ水走る野火止野火止の鴨の平穏確かめて小さな橋のたもとを通る今日の日が無事に過ぎたということの続きに咲いて深山苧環もっこりとふくらむ鴨が水を掻く 冬がきている野火止用水通り過ぎてしまいそうだが、ふと心惹かれる。日常こそが詩なのだと思う。思ったときにとどめのように現れた次の一首。究極のシュールは写実であるというダリの直感的なパンの絵私はやっぱり短歌に恋をしている!再認識させられてしまった『銀河最終便』を閉じたとき、裏表紙にやられた。そこにあったのは、表紙の銀河を遠く眺めているガリレオ。その望遠鏡。はらはらとある歌が胸に落ちてきた。あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ/永井陽子そうか、そうだったのか。わが影をしたがへ冬の街に来ぬ 小さなバイオリンが欲しくて/永井陽子ソノヒトガモウイナイコト 秋の日に不思議な楽器空にあること大それた発見のように、本当はこんなことは書かないほうがよいのかもしれない。が、あえてお許しをいただこう。この歌集の底にながれている哀しみをともなった致死量の愛は、ひと、花、地球、宇宙、そして未来への挽歌なのかもしれない。ライラック苦しきことを忘れんと買い求めくる水無月の花大切な一日のため雨よ降れ しずかにひらいてゆく花があるあの貨車は今どのあたり過ぎている 遠い銀河をゆく夏燕千年を眠るためには千年を眠れる言葉が必要であり一日の終わりは早い 散り急ぐ花であったと時間を思う