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カテゴリ:マルチチュード
アントニオ・ネグリ
今日は時間があったので、書店に行って、この「マルチチュード」上巻を立ち読みしてきた。立ち読みして分かるような本ではないが、購入して手元においたからと行って、理解できる本でもない。しかし、そこにある直感的なイメージは、可もあり不可もある、ということだった。 つまり、マルチチュードという概念は、私が地球人スピリットというニワカ造語でなにごとかを言おうとした存在と極めて類似点が多いということである。先日自分で書いた記事を読んで、そうだなぁ、と今夜もほとんど同じイメージを持った。 もっともまだ一週間しか経過していないわけだし、実質的にまだネグリ=ハートの著書を「読んだ」わけでもないので、そんなにイメージが変わるわけではない。しかし、いまのところ、一番期待したくなる提案であることには間違いない。 ネグリ達は、マルチチュードというのは哲学的な存在であって、また詩的な存在でもあると言っている。それは現在のところはそうであろうが、あまりに筋書きにリアリティがあれば、当然のごとく、そのエクリチュールに対応したごとく、行動する主体がテクストとして現れてくる可能性は当然ある。 難点は、やや理に傾きすぎて、現在の私がやっているような新書本斜め読みや速読ではとてもとても理解できないということ。いや、理解できないのではないが、その検証ひとつひとつにつき合っている時間がないということだ。 松岡正剛もネグリについて書いている。 マルチチュードとはもともとはスピノザに由来する言葉である。スピノザのことを片時も忘れないネグリは、この異貌の思想者からマルチチュードを盗む。 マルチチュードとは自主的多数派のことである。「群衆」「多数性」「多性」などといった訳語があてがわれてきたのだが、どれもぴったりしない。マルチチュードと原語でいうのが、いちばんいい。それより重要なのはマルチチュードが何をするかということである。一言でいえば憲法制定の力を担う者のことをいう。すなわち、マルチチュードが「帝国」を解体し、憲法制定権力をもつこと、それがマルチチュードのミッションなのだ。 このマルチチュードという概念はどこまで成長していくのだろうか。敢えていうなら、このネグリ達のマルチチュードの中に、このブログでも触れてきた「スピリチュアリティ」というものが加わってくれると、私の期待している概念により近くなる。すでにそういうことは書いてあるのかも知れないが、まだ、そういうところは見付けていない。 今日は下巻を走り読みした。やはりこの本は上下で読まなくてはならないだろうし、また、ゆっくりと時間をかけて玩味しながら読まなくてはならないだろう。朝刊に織り込まれたスーパーの特売チラシを見るような現在の読書スタイルでは、とても手に負えるものではない。 マルチチュードの意志決定能力を理解するには、コンピュータソフトウェアの共同開発や革新的な「オープンソース」運動のアナロジーも役に立つかもしれない。(中略)先に「群知性」に関連して指摘したように、人間は一人のときより多数のほうがより知的能力が高まる。ここで重要なのは、オープンソース方式による協働的なプログラミングは決して混乱やエネルギーの無駄をもたらさないということである。実際、これはうまくいく方法なのだ。とすればマルチチュードによる民主主義は、ひとつにはオープンソース社会として理解することができるだろうーーーすなわちそのソースコードが公開され、全員が協同してバグを解消したり、より良く新しい社会プログラムを創造したりできる社会として。「マルチチュード」下巻p236~7p オープンソースが、共産的だと批判されていた時代があったのに、今度は、共産主義者たちから、オープンソースから賞賛される時代へと移り変わってきている。いずれにせよ、来るべき人々としてのマルチチュードとはいかなるものか、もうすこし自分なりに手繰り寄せて味わってみる必要を感じる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.04 18:45:56
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