「娘と話す 哲学ってなに?」
ロジェ=ポル・ドロワ著 藤田真利子訳 現代企画室 2005/12
この本を見ながら「ソフィーの世界」を思い出した。あの本はとても厚くて、そうとうに手ごたえのある本だった。当時、中学1年生だった娘に、親ばかの私はこの本をなにかの折りにプレゼントしたことがあった。私自身はよく読んでいなかったのだが、その本の影響で、娘は「自分探し」をテーマにした弁論大会で学年代表などにはなったらしい。
その娘に、今朝聞いてみたら、中学生の時には理解できるところもあったが、分からないこともあった。高校になっても読んだし、大学生になった時には大体読んだ、ということだ。その本は今でも持っているらしいから、今度は私が借りて読んでみようかな。
あちらは分厚い本なのだが、こちらは、新書本であり、文章もすくなくとてもコンパクトだ。この本は現代企画室というところの「子どもと話すシリーズ」の中にある。なかなか分かりやすく、哲学って、こういうことなのか、とちょっぴり分かったような気になった。
哲学者があまりひとに好かれないというのも、そもそもそれが理由なのさ。つまり、哲学者はわたしたちの眠りを邪魔し、わたしたちの目を覚まさせるんだ。p40
私も哲学者というのは、関心がないでもないが、気難しそうで好きになれないのはこういうところに理由があったのだなぁ、とほっとした。
一番簡単に言えるのは、賢者とは、自分の人生を導くことのできる正しい考えを見つけ出し、それを自分の生き方の中に完全に取り入れるのに成功した人をさすということだね。p57
このように生きることができたんだろう、と推測できる人はいないわけではないが、私自身はとてもとても「自分の生き方の中に完全に取り入れるのに成功した」なんてことは、自分の人生の中で起こり得ることすら想像しかねるところがある。しかし、その言葉の誘惑は強い。
目標に達したと言うことではないんだけれど、試みはした。その結果、見事な考えの構造が残された。たとえばデカルトや、スピノザ、あるいはライプニッツの思想がそうだよ。p73
ああ、ここでスピノザがでてくるか。ここでこういう風に語られると、またまた、あの頭の中のトレーニングジムにいってみようかなぁ、と思えてくるから不思議だ。
心理学(psychologie)はもともと古代ギリシャでは「魂(プシュケーpsychie)の学問と呼ばれていたんだ。哲学者がいつの時代でも深く考え続けてきたのが、いろいろな感覚がどのように結びついているかという問題や、記憶・連想・感情・意識がどんなふうに働いているかという問題なんだ。p103
そして、百年ちょっと前に、心理学は哲学から分かれて、しだいに実験を重んじる科学的な学問になってきたんだ、と説明する。そして脳科学についても言及している。
敵というのは、その著者を読むと、「でも、どうやったらこんなことを考えられるのかな? とんでもない、ありえない! ものすごい! そんなことがあるなんて想像もしなかった」などと言いたくなってしまうような哲学者のことだ。そういう敵は、なくてはならないものなんだ。とても貴重だと言ってもいい。こうした敵のおかげ、新しい見方や、自分自身では決して思いつかないような考え方を見つけることができるんだ。
とにかく大事な点は、うんざりせずに、好きな著者の本も嫌いな著者の本も読んで、喜んだり怒ったりすることだね。それが、自分の考えが生まれるきっかけになると思うよ。p119
う~~ん、いい言葉だな。ここは赤文字で大文字にしてアンダーラインを引いておこう。この言葉を、わがブログのモットーにしよう。
もしほんとにうんざりしすぎたら、休めばいいんだ。簡単なことじゃないか。でも、なんにもわからないというは信じられないな。それはほんとうじゃないよ。一冊の本には、だいたいわかる章がひとつくらいはかならずあるものだ。ひとつの章には、だいたいわかるページが1ページはある。それから、わけのわからないページにだって、完全にわかる文章がかならずひとつはある。p120
いいなぁ、このお言葉、ありがとうございます。なんだかやる気がでてきたぞ。
だからさ、そこにしがみついて、わかるところでがんばり抜かなくてはいけないんだよ。そこから出発して少しづつ、わかりにくいところや、ぜんぜんわからないところへと進んでいくんだ。少しの辛抱と、少しの知識とで、わずかずつでも景色は変わってくる。哲学というのは最終的には、あらゆる種類の冒険や、道筋を可能にするんだ。哲学はまた、哲学なりのやり方で旅をさせてくれる活動なんだ。さて、今度は、おまえが自分の道をたどる番だよ!p120
は~~い。