(上)より続く
「マルチチュード(下)」〈帝国〉時代の戦争と民主主義 <再読>
アントニオ・ネグリ /マイケル・ハート 2005/10 日本放送出版協会 全集・双書 309p
グローバルな絶対的民主主義へ
貧困な不平等の拡大、代表制の機能不全、環境破壊、
容赦なく進められる民営化・・・・
<帝国>がもたらす様々な困難を、どう克服するか。
グローバル・システムへの抗議運動や改革提言を、
来るべき「マルチチュードのプロジェクト」の萌芽ととらえ、
常に多数多様でありながらも共に活動できるその闘争形態に、
「全員による全員の統治」という絶対的民主主義の可能性を見る。
戦争の時代を突き抜けて、グローバル民主主義の構築へと向かう
マルチチュードのダイナミズムを力強く描く、待望の書! 表紙見返し
こちらの<下>巻のコピーもまたセールス・プロモーションのための文言だとしても、これだけ魅力的なキャッチ・コピーなのに、なかなか続く本がないなぁ、と思っていた。なかなか次なる本がないので、ついつい先祖がえりして、<再読>するはめになったのだが、実は、「続くもの」の探し方が悪かったのだ、ということが、あとから分ってきた。
この本でも盛んに暗示されているが、インターネットの実体とマルチチュードという概念の近似性が、あちこちでささやかれている。私もおおいに気になって、その香りを嗅ごうとして、いくつかの資料にあたってみた。ところが私の探しかたは、インターネットを主に探求している資料の中にマルチチュードのリンクを見つけようとしてきたのだった。これでもあることはあるのだが、断片的でしかない。
ところが、この本を読んでエントリーを書く段になって気づいたのだが、むしろマルチチュードはマルチチュードとして検索していくのがいいようなのだ。つまり、マルチチュードという概念には、深くインターネットの思想が含まれているし、インターネットがあったればこそ、マルチチュードという概念が強く復活してきているような雰囲気さえある。つまり、インターネットが先行し、マルチチュードが後追いしている、という感覚だ。解説で翻訳者の水嶋一憲が書いている。
ただしここで確認しておきたいのは、ネグリ&ハートの仕事が、「何をなすべきか」という具体的な行動プログラムを<指令語>として発するものではなく、すでに存在する(あるいは、いまだ存在しない)政治的な欲望や実践に寄り添いながら、現在の政治秩序に対するオルタナティブな潜勢力を形成するために、開かれたネットワーク上の特異な節点を介して受け渡されていく、字義どおりの<パスワード>を編み出そうとするものであるという点だ。p268
インターネットが作り出せる可能性は、現在のところ、まだまだ未知数に残されている。だが、暴走するかに見えるその潜在力は、ともすれば目的や全体性を失い、自滅さえしかねない可能性さえある。ところが、その可能性に、ある一定の意味づけを与え、あるいは、ひとつの方向性を持たせながら、より進化させようとする試みが、ネグリ&ハートのマルチチュードが提起し、またそれに続く論議が取り組んでいる課題、ということになるのだろう。
三部作映画『マトリックス』はまさにこの権力の依存を巧みに描いている。仮想空間マトリックスはコンピュータに「栽培」された何百万という人間のエネルギーを吸い取るだけでなく、ネオやモーフィアスによる創意に満ちた攻撃や人類最後の砦ザイオンの抵抗に対応することによって生き続ける。マトリックスが生き延びるためには私たちが必要なのだ。p229
この本のなかに、さりげなくこのような表現がでてくるのは、1933年生まれの、しかも牢獄暮らしの長かったネグリのセンスではないだろう。むしろ、アメリカの1960年生まれの青年、ハートが共同作業者としてこの本に参加していることによってもたらされているセンスだと考えていいのだろう。現代の文化や情報などについてのそのような思いは、この下巻においてとくにあちこちに感じられる。
一方、ソフトウェアを無償で公開し、誰でも自由に改良できるようにすることを目指すオープンソース運動のようなラディカルな例もある。この運動の支持者によれば、企業が所有する私有財としてのソフトウェアはソースコードを公開していないため、ユーザーはそのそのソフトの仕組みがわからないだけでなく、その問題点のありかをつきとめたり改良したりすることもできない。ソフトウェアのコードは常に協同プロジェクトの産物であり、それを見て改変する人が多ければ多いほどそのソフトの質は向上する。p183
この辺のマルチチュードからインターネットへのラブコールは、ストールマンなどにいわせれば、言葉つかいからして、もっと別な表現となることだろう。しかしまた、ネグリ&ハート側からの、彼らが主となって関わってきた世界についての、さまざまな細かい指摘もある。
グローバル市民社会というのも同様に漠然とした言葉で、しばしば種々の非国家組織や共同体を指すのに使われるが、これもまた現実的な代表メカニズムはもっていない。さらに文明や人民といった、人種や民族性、宗教にもとづくアイディンティティ概念もまた、代表性をもつとは主張していない。p173
このブログで漠然と夢見ている、インターネットとマルチチュードが不可分に有機的に融合し、かつ機能している世界は、まだ見つかってはいない。そしてそこにさらにスピリチュアリティという要素がさらに加わっていれば、さらに嬉しいのだが、それはありません、不可能です、と断定するにはまだ早い。
「アントニオ・ネグリ講演集」(上)(下)という本もでているようだ。関連本は図書館にはいるまでなかなか時間がかかっているようだが、皆無ではないので、すこしづつまためくってみようと思う。
2006/10/08初読
<3>につづく