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カテゴリ:民俗学・社会風俗・地誌・歴史・博物学
![]() もちろん、どんな人だって、その人が何をした人か、ということを簡単に説明できることはほとんどいないだろう。 粘菌の生態を観察するばかりでなく、東西の古典を読み、仏典を読み、文章を書き図をえがき、自分の好きなことだけに情熱を注いで生きた人である。 どんな人生を送ったのか知りたい、という人は、この本を読めばいい。 以下、「おやっ」と気になったところを羅列する。 「百姓の子でありながら武士の倅《せがれ》を誤って死なせ、代わりに養子となって討入りで奮闘した神崎与五郎《かんざきよごろう》の話」(p7) わたしは忠臣蔵の話は好きで映画やドラマをいろいろ見ているが、この話は初耳。 講談ではこうなっていたのだろうか。 熊楠と漱石はほとんど入れ替わるようにしてロンドンにいた。 帰国途中の熊楠の乗った船は、漱石の乗った船と行き違いになったのではないかという。 熊楠は、「支那人」よばわりされることを嫌ったが、漱石は違う。 「支那人は日本人よりもはるかに名誉ある国民なり、(中略)心ある人は日本人よ呼ばるるよりも支那人と言わるるを名誉とすべきなり」(p135) と書いているそうだ。 このように、同じ時代の人であっても、頭の中では別々に存在しているので、なかなか結びつけられない。 熊楠の手紙に登場する「兵隊帰りの植芝なる豪傑」(p225)は合気道の植芝盛平であるという。 この後、北海道に渡り、武田惣角に出会うのだ。 ほかに、河東碧梧桐や金田一京助、折口信夫、三田村鳶魚らとも会っている。 折口など、若山時代に合っていても良さそうなものだが、東京で会っている。 三田村鳶魚は、どういうつながりで熊楠に興味を持ったのだろうか。 以下に目次を引いておく。 はじめに 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.08.05 20:47:30
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