|
カテゴリ:プロレス・格闘技
王道継承者:三沢光晴 闘魂継承者:武藤敬司 二人は現役選手だけではなく、社長業としても 同じ道を歩む事になる。 1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における 権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて 全日本プロレスの社長に就任した。 三沢は就任時に「いいものは採り入れて、 今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語った。 しかし、全日本プロレスの株式は三沢ではなく 馬場元子が保有しており、馬場の運営方針を100%受け継ぐ事が求められ、 新たな試みを行う事は一切禁じられた。 後に三沢はこうした環境が「オレのやろうとする事が、 尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われ、 更に全日本らしくないと非難されるなら、俺の方から身を引く」と 全日本プロレス退団を決意する。 一方の武藤敬司も1999年は1年間王者に君臨した評価が認められ、 プロレス大賞MVPに選ばれているが、 新日本プロレスが格闘技路線に重心を移し、 武藤自身のアメリカでの実績、新日本での実績が 潰される事になると不安を抱え、身を聞く事を決意する。 三沢は、2000年6月16日に記者会見を開いて 新団体「プロレスリング・ノア」設立を宣言した。 三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、 全日本プロレスを退団して新団体に参加するレスラーは 練習生を含め26人にのぼり、三沢の人望が高い事が証明された。 そして、武藤は三沢が抜けた全日本に協力する形で 新日本代表として参戦し、定期的に全日本に参戦する事になる。 団体の垣根を超えた超党派ユニット「BATT」を結成し、 新必殺技シャイニング・ウィザードを引っ提げ、 史上初の六冠王者となった。 武藤は弟分の小島聡、ケンドー・カシンおよび 新日本プロレスのフロントスタッフの5名と共に 不満のあった新日本プロレスを突如退団し、全日本に入団。 馬場元子社長から全日本プロレスの株式を譲り受け、 オーナー兼社長となった。 三沢と武藤は同じ社長という立場となり、多忙の毎日を過ごし 体調は共に常に悪くなってしまい、 三沢は頸椎に骨棘ができて下を向く事が困難になり、 武藤は変形性膝関節症により、右膝関節内遊離体除去の手術を行う。 この二人が。リングで遭遇したのが2004年7月10日に行われた NOAH東京ドーム大会で三沢&小川良成vs 武藤&太陽ケア戦。 この試合では敗れたが「夢の続き、見ませんか?」と 三沢にメッセージを送り、これが切っ掛けで 三沢は古巣である全日本プロレスへの参戦を果たした。 10月31日、両国国技館での武藤敬司デビュー20周年記念興行において 武藤は三沢とドリームタッグを結成。 馳浩・佐々木健介組と対戦して勝利を収めた。 【銀河家具】パソコンチェア オフィスチェア オットマン付き ガス圧昇降 360度回転式 ロッキング機能付き キャスター付き 社長椅子 選べる2タイプPUメッシュ パソコンチェアー オフィスチェアー OAチェア デスクチェア ワークチェア チェア キャスター イス お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.11.09 20:00:06
コメント(0) | コメントを書く
[プロレス・格闘技] カテゴリの最新記事
|
|