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ジージの南からの便り

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2018.05.19
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カテゴリ:鹿児島の歴史


 「2018年 かんまち本でさるく 上町歴史散歩」に参加し「知られざる薩摩の英雄たちが眠る興国寺墓地をめぐる①」に行ってきた。今にも降り出しそうな天気だったが、幸い雨に降られることもなく、無事終了した。

 上の写真の興国寺墓地は元々は興国寺のあった場所である。興国寺は、曹洞宗 福昌寺の末寺で島津家11代忠昌、及び18代家久の夫人持明院の菩提寺だった。
 
 明応5年(1496)忠昌は、清水町(清水中学校プール裏手)に興国寺を創建した。その後、12代忠治が同地に大興寺を創建したため、城山下の鶴丸城の地に移されるが、築城が始まると、ここ冷水町に移設された。
 明治の廃仏毀釈後、興国寺跡は、現在興国寺墓地となり市が墓地を継承した。また南林寺墓地の市街化に伴い、大正期に拡張整備され、多くの墓がこの場所へ移転した。現在市内に18ヶ所ある市営墓地の中で最も古く、明治43年(1910)に開設された。



 「薩藩旧記雑録」という藩の史料をまとめた 伊地知季安(いぢちすえやす)、季通(すえみち)親子の墓標。 左が季安 天明2年(1782)~慶応2年(1867)
     右が季通 文化15年(1818)~明治34年(1901)の墓

 伊地知季安は文化5年(1808)26歳の時、近思録崩れに連座して奄美の喜界島に遠島になる。3年後に帰ってきたが、その後40年も役職につけず苦しい生活を続けた。嘉永5年(1852)28代当主・島津斉彬にみとめられて記録奉行となり、史料収集をし、親子2代でまとめた。それが「薩藩旧記雑録」とよばる島津家及び薩摩藩家臣の鎌倉時代から明治時代までの文書集である。島津家、及び薩摩藩の歴史研究の根本資料といわれる。現在順次発行されている「鹿児島県史料」で見ることができる。

 「近思崩れ」とは?
江戸時代後期の文化5年(1808)から翌6年にかけて薩摩藩で勃発したお家騒である。「文化朋党事件」「秩父崩れ」ともいわれる。処分者の数は有名な「お由羅騒動」(高崎崩れ)より多い77名であり、薩摩藩の経済改革が遅れる原因となった。処分された秩父季保らが「近思録」(朱子学の教本で、儒教の実践に重きを置く)の学習会によって同志を募った事からそうよばれている。



 伊地知家初代からの招魂墓



 高崎五郎右衛門・正風親子の眠る高崎家の墓 
 五郎右衛門 享和5年(1801)~嘉永3年(1850)
 正風    天保7年(1836)~大正元年(1912)

 高崎五郎右衛門は、薩摩藩の船奉行を務めていた。嘉永2年(1849)、お由羅騒動(高崎崩れ)で島津斉彬派を指導したことが、藩にばれてその罪で咎を受け切腹させられた。

 正風(まさかぜ)は歌人(二条派・桂園派)としても知られる。五郎右衛門の長男。
正風もお由羅騒動に連座して奄美大島に流罪となる。その後、八田知紀について和歌を学び、桂園派歌人として有名になり、宮中のお歌所長となった。明治23年(1890)、皇典講研究所所長山田顕義の混声により初代國學院院長(明治26年まで)を努めた。

 「お由羅騒動」(高崎崩れ)とは?
島津家27代当主・薩摩藩10代藩主の島津斉興の後継を巡る嶋津家の家督争いである。本来は島津斉興の正室である周子(かねこ)の子、斉彬が家督を継ぐべきであるが、藩主であった島津斉興本人や側室であるお由羅の方(NHK大河ドラマ「西郷どん」のお由羅役の小柳ルミ子の怪演? で有名になった)、側近で倹約主義の調所広郷(ずしょひろさと)らが、お由羅の方の子、島津久光を後継にしようと謀ったことに端を発する騒動である。



 高崎五郎右衛門の墓



 参考資料として「かんまち本、その二」、現地案内版などを参考にした。





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Last updated  2018.05.20 09:03:13
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