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カテゴリ:島津一族
新納旅庵の墓 鹿児島県姶良市 願成寺墓地(がんじょうじぼち) 島津義弘の足跡をたどるに掲載 島津義弘没後400年に寄せて 新納旅庵 天文22年(1553)~慶長7年(1602) 名は長住、号は休閑齋。 肥後八代荘厳寺の住職であったが、島津義久の命で兄が還俗するように説得するが、断り続ける。やっと説得に応じ還俗し、義久から義弘の家老として付けられて、その後、帖佐館造営の現場監督を任されている。 朝鮮での「文禄の役」や「関ヶ原合戦」で功績を上げ高原・栗野・市来の地頭職を務めた。 「関ヶ原合戦」では手勢を引き連れて義弘のもとに駆けつけた。戦利あらず退却したが、途中で義弘一行とはぐれ鞍馬山に隠れているところを捕らえられ東軍の捕虜となった。この時の捕り方が旧知の山口直友であったため不思議なめぐり合わせだということで降伏したという。この山口直友は、徳川家康の旗本であり、慶長4年(1599)の庄内の乱で忠恒と伊集院忠真との関係修復に奔走した人物であり、その関係で旅庵もよく見知っていたのだ。大阪に連行され旅庵の赦免を、義弘はやむなく家康に敵対したのだと家康に嘆願してくれた。 翌年には家康の使者とともに薩摩へ赴き、以後上方との間を何度も往復して島津家の保全のために尽力した。慶長7年(1602)大阪にて50歳で死去。 忠恒が上洛し、島津家が本領を安堵されたのを見届けた直後の死であった。 参考資料 「戦国武将 島津義弘 史跡ガイドブック」 姶良市教育委員会編 「島津義弘の足跡をたどる」 姶良市歴史民俗資料館編 「薩摩島津家 最強の真実」 KKベストセラーズ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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