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カテゴリ:鹿児島の歴史
コロナ騒ぎでこの約5ヶ月、遠くへの外出を控えていたが、久しぶりに高校の同期生にの自称「歴史会」によるドライブでの史跡探索に出かけた。 主要な目的は「島津義弘の居城のうち3ヶ所を巡る」ものだった。 朝8時15分、鹿児島市内のMくん宅に集合し、Mくんの車に便乗させてもらって出発。高速道路を鹿児島空港ICで降りて、一路Mくんの郷里・霧島市牧園町へ。ここはその昔「踊郷」(おどりごう)と呼ばれた。 江戸時代の1615年、徳川家康が一国一城を唱えたので、薩摩藩は外城のあった藩の各地に「麓」を設けた。そこに半農半士の「郷士」を住まわせ「人をもって城となす」という外城制度である。 外城制度は対外的には中央政権との対決に備えるもの、対内的には農民統治、一揆対策のための役目を果たした。 Mくんのご先祖は「牧園町郷土誌」によると、M家は今の姶良郡山田から移封を命ぜられて踊郷に住み着いたという。そしてM家などの郷士は戦国の世に、島津氏のために身命を賭して戦った勇士たちであったという。そしてM家のご先祖たちは「組頭」や「名頭」として踊郷のために尽くしておられる。 一族は「戊辰戦争」や「西南戦争」にも出陣し、「戊辰の役従軍記」などが残されていて、後世の歴史家の資料にもなっている。 踊郷が牧園村~牧園町となった後、M家からは町長や県議会議員を輩出した。 その墓地にMくんが墓参りに行くというので私たちも同行したということだ。 そして墓標の一群を見て驚いた。 これまでにも武家の墓標はたくさん見て、当ブログにも紹介してきたが、M家の墓標もそれに劣らぬものだったからだ。 ただMくんの話ではこの墓地には比較的新しいご先祖のお骨は残っておらず、鹿児島市に新しく作った墓地に改葬されたという。しかし、この墓地を整理した時に、バラバラに置かれていた墓標をここの一ヶ所にに集めて墓標は残したのだという。郷士の一端を知ることのできる歴史遺産として後世に残すべきものであろうと思う。 もう一つ書いておかないといけないことがある。それは、男性のご先祖の墓標は比較的単純なものであるが、逆に女性の墓標は祠型であるということだ。どういう意味があるのかわからないが、一般に男尊女卑と言われる鹿児島でどうしてだろうと思うことだった。案外世間で言われていることが曖昧なのかもしれない。現在はそういう風潮は欠片もないことを書いておきたい。 これは他家の墓地だが、ここも夫婦の墓と思われる。 墓地中にオニユリが咲いていた。 墓地は小高いところにある。帰る時に坂を下りながら見た風景は梅雨明け近しを思わせた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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