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カテゴリ:世界とモンゴル
5月9日の対ドイツ戦勝記念日のモスクワでの様子を映し出したテレビのニュースを見て、「おー、叫んでいるな!」と、10年ほど前に書いた本ブログのことを思い出しました。その記事は「日本語になっているモンゴル語?」(https://plaza.rakuten.co.jp/mongolmasami/diary/201208060000/)です。
テレビに映し出されたのはロシアの軍隊で、叫んでいたのは「ウラー!!」です。10年前の記事にもあるように、この「ウラー」の起源は、モンゴル語のhuraaです。起源とは言いますが、現在でもモンゴルで使われているバリバリの現役の言葉です。 意味合いは、軍隊の雄たけびであり、今では応援するときに使う言葉となっています。文字を見ると「フラー」に見えますが、実際のモンゴル人の発音を聞くと「フレー」に近い感じです。 このhuraaが13-14世紀にロシアを支配していたモンゴル帝国を通じて、ロシアに入り「ウラー」となったのです。そして21世紀のロシアの軍隊がプーチンの前ではっきりとわかる発音で「ウラー!!」と大声で叫んでいたというわけです。 これだけを見ても、ロシアとモンゴルの深い無結びつきと長い関係がわかろうというものです。モンゴルとロシアの関係を語るときには、私は3つの視点が必要だと思っています。 1つは、このウラーに象徴されるような「タタールのくびきの300年」です。プーチンは「ロシアとウクライナは元々兄弟だった」などと言っていますが、一体何をもって「元々」なのか?そもそもロシアという国の領土概念を作ったのはモンゴル人なのですから。 モンゴルが13世紀にこの地にやってきたときは、ロシアあるいはその代わりでもよいですが、この地にそのような領土的地域の概念はなかったのです。チンギスハーンの長男ジョチ及びその次男バトゥがこの地に来た当初は、バラバラな村(あえて言えば都市らしきもの)があっただけで、その集合体的地域はなかったのです。 ですが、その後ジョチウルス(キプチャクハン国)ができ、この辺りを「ルーシ」という地域概念でまとめ上げたのです。キーウ(キエフ)は当時からこの地の中心都市であり、モスクは超ド田舎の村でした。 なので、プーチンが言うとおりにウクライナとロシアが兄弟であるとしたら、兄がキーウのウクライナで弟がモスクワのロシアということなのです。 ちなみに「タタールのくびき」のタタール人について説明しておきましょう。ロシア人(及びそこを通じて知ったヨーロッパ人)にとってのタタール人は、広い意味でのモンゴル人のことを指します。ですが、モンゴル人にとってのタタール人は別の存在です。 タタール人は13世紀にチンギスハーンと争ったタタル族であり、元々はテュルク系遊牧民族です。ですが、その後チンギスハーンの傘下に入り、ヨーロッパ、ロシア進出時の先兵部隊でもありました。現地で「お前たちは誰なんだ?」と聞かれれば、当然「タタル人だ!」と答えたわけです。 モンゴル軍は、モンゴル系、テュルク系など多くのアジア系遊牧民族から成り立っていたのです。ですが、ロシア、ヨーロッパ系の人々にとっては統治しているモンゴル人と先兵でやってきたタタルの違いなどわかるはずもなく、モンゴル人をはじめとする征服遊牧民の総称としてタタールと呼んだのです。 もう一つこの名前が広くヨーロッパに広まった理由があり、それは私たちも食べることがあるタルタルステーキに由来します。ギリシャ神話にタルタロスという神様がいて、その名前が後に地獄や悪魔を意味するタルタルになったそうです。 このタルタル(tartar)とタタール(ロシア語ではtatarですがヨーロッパではtartar)とが重なって、「悪魔のタタール人」を意味することとなり、広く広まったのです。そして生肉で食べるステーキがタルタルステーキと言われたのです。 もっとも、モンゴル人は生どころか焼肉でも少しでも赤い部分が残っていると食べたがらないほど、生肉を食べるのは「絶対禁止!」という伝統がありますから、もし本当に生肉を食べたタタール人がいたとしたら、それはモンゴル人以外でしょう。 2つ目の視点は、本ブログでも最近取り上げたブリヤード人、カルムイク人(オイラード人)更にはトヴァ人(元々はトュルク系だがモンゴル化した民族。モンゴル国内にはトナカイを飼うツァータン人として有名。)などの存在です。今回のウクライナ侵攻時にはいち早く戦地へ送られ、多くの死者を出している人たちです。 更にはロシア革命などで内モンゴルへ逃れてきたバルガ族も間接的ではありますが、ロシアとモンゴルを関係つける人たちと言えます。内モンゴルは主にチャハル人が多く、中国内での差別や弾圧に苦しんできた歴史がありますが、ロシア側のモンゴル人も建前とは裏腹に似たような扱いを受けてきました。 今回のウクライナ侵略での扱いはそれが象徴される出来事と言えるでしょう。ロシアと中国の共通点は「モンゴル人は常にバラバラにしないといけない。一つにまとめたら、非常に危険であり怖い。」というモンゴル民族全体に対しての潜在的な恐怖心があることです。 3つめの視点はやはり1924年以降の社会主義国としての関係です。ソ連に続く世界で2番目の社会主義として誕生したモンゴル人民共和国は、実質ソ連の植民地のような状態で、多くのリーダー、知識人が粛清された歴史を持ちます。 日本語の「粛清」と言う言葉を何度モンゴルで聞いたことか。ロシアは建国当初からロシア革命などを通じて「タタール人」(すなわち、モンゴル人やトュルク系のアジア系遊牧民)を敵視してきましたから、その「仕返し」的支配が対モンゴル政策の基本だったように思われます。 話を戻しましょう。 モンゴルのhuraaがロシアでuraになりました。これが世界に広まったのですが、どうやらhを発音するルートとhを発音しないルートがあるようです。ドイツではhurra、イギリスではhurrayとなりアメリカへ。日本はそのアメリカから伝わって、例の「フレーフレー」になるわけです。 スペインやポルトガルへはrがlになってoleと伝わったようです。これがブラジルへ行って「オーレー!」と例のサッカーの応援になるのです。(諸説あるようです) とにかく、モンゴル語が数百年かけて地球を一周したのはすごいです。その最終地点が日本だということも。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.05.14 11:13:24
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