211244 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

創生陸玖の『Learning Journey』

創生陸玖の『Learning Journey』

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

創生陸玖

創生陸玖

Calendar

Recent Posts

Category

Archives

Free Space

ブログ村に参加中です♪
PVアクセスランキング にほんブログ村
創生陸玖の『Learning Journey』~読書記録~ - にほんブログ村
2023/09/14
XML
テーマ:哲学・思想(191)





「諸子百家」「東洋哲学」について今回までまとめてきて、8月は「仏教」についてまとめて、これまで、儒教や道教、仏教のことばかりを考えてきました。ここまでまとめてきて、自分なりにわかったことを一言でいうと、「東洋思想の流れは、当たり前のように私たちの生活の身近にある」ということでした。

 

東洋哲学について理解してくると、普段の生活の中で「この人の考えは儒教的だな」「これは道教っぽいな」などと考えることもありました。それだけ、普段の生活に考え方がとけこんでいて、そして、気づかないうちに、私たちは孔子の教えや、老子の教えを実践しているといえます。

 

さて今回は、これまでまとめた東洋哲学について、振り返りをしつつ、捕捉したい部分もあるので、それもふまえて総括していきたいと思います。まずは、「性善説・性悪説」についてです。

 

性善説・性悪説=教育論

性善説・性悪説とは、孔子の後の時代に、孟子と荀子が唱えた「人の本性の定義づけ」です。

 

・性善説=「人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ」

・性悪説=「人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ」

 

これはただ単純に、「人は善だ」「人は悪だ」という本性の定義づけをしたものではないようです。性善説・性悪説を、もう一歩ふみこんで見てみると、これは「教育論」になります。

 

性善説・性悪説は、違う身分、違う経済レベルでの教育を語っています。つまり、孟子と荀子は教育論を語っていた、ということになります。

 

・性善説の教育=「子どもを信頼し子どもの自主性に任せていく教育」

性善説の考えであれば、子どもを過度に管理したり強制したりすることなく、子どもの自由や主体性を尊重する教育になる。自由で、親と子が平等な民主的な教育のあり方。

 

・性悪説の教育=「親や教師が上に立って厳しく管理強制する教育」

性悪説の考えであれば、子どもは放っておいたら怠けるばかり、遊んでばかりになる。だから、厳しく管理し、必要なことは嫌がっても強制して教え込む教育になる。上下関係を重視し、子どもを従わせる教育のあり方。

 

ようするに、孟子は「人は自分の意思で勉強するというエリート教育」を言っていて、荀子は「人は怠けるから強制して勉強させる義務教育」を言っていたということになります。

 

孟子「自分の勉強したい時に一生懸命勉強したら立派になるよ」

荀子「人間は怠けがちだから義務教育の学校を作るよ」

 

人間は社会的な生き物のため、善にでも悪にでもなると考えられます。そして、人間は環境や習慣によって作られます。身分や経済レベルが高いと、自分の意思で勉強することができる人間になる傾向があるのでしょう。その反対であれば、怠ける傾向が高まり、義務教育が必要となってくるのだと思います。

 

「儒教・ストア派」と「道教・エピクロス派」

孔子は、人間にとって大切なものは、「仁(主観的)」という内面と、「礼(客観的)」という目に見える態度だと説きました。そして後に、孟子は仁という「個人の内面」を重視し、荀子が礼という「態度」を重視していきました。

 

この孔子一派が「儒教」というくくりで、それに対して発展していった思想の流れが「道教」です。この2つの学派が言っていたことをまとめると、次のようになります。

 

「儒教」=リーダー論(リーダーとして必要な心構え)。国家のあり方を説いていた。政治の話。人徳を持って成功しろ。

「道教」=出世と成功にとらわれない生き方。存在とは何か(哲学の話)。成功したら大変だ。

 

儒家は、意識高い系(=人徳を持つ者が成功して会社や国を大きくする)であり、道家は、スローライフ(=立派な生存戦略)だと言い換えられます。(「老子道徳経」は、「道=存在の本質とは何か」を語ろうとした書。「徳=愛とは何か」を記そうとした書。=存在と愛の本質の教え)

 

ここで私が気づいたことをまとめると、次のとおりになります。

 

・世の中が混乱していた場合 →儒教が役立つ。儒教の教えは、社会(人間社会)や仕事へのアプローチ方法

・世の中が安定していた場合 →道教が役立つ。道教の教え、は個人や私生活へのアプローチ方法

 

道教の祖といわれる老子は、儒教の仁や礼などは、世の乱れを対処するために仕方なく作られたものだと考えます。そのため、世の中が混乱している場合は儒教の教えが人を律するのだと思います。そして、道教は、道家の思想が後に、仏教や陰陽五行説と合わさって民間信仰となったものです。ですから、道教は個人へのアプローチが強いのだと思いました。

 

西洋にも同じような関係の哲学があります。それは「ストア派」と「エピクロス派」です。

 

・ストア派(禁欲主義):「強きものよ、徳をもって見誤るな」

理性によって欲望や感情をコントロール → いかなる情念にも心を動かされない境地を目指す

生活信条:自然に従って生きる

人物:創始者ゼノン、セネカ、エピクテトス、マルクスアウレリウス

 

・エピクロス派(快楽主義):欲望から開放されるのが快楽

苦痛、不安、恐怖などがない状態こそ快楽 → 煩わしい世界と一線を引き、心の平穏を目指す

生活信条:隠れて生きよ

人物:エピクロス(創始者)

 

西洋の哲学(倫理)に近かったのが名家の公孫竜という人物です。公孫竜は社会を安定させるために、まず「正義とは何をさすのか」「徳とは何か」「天の実体は何か」など、名に該当する実体をはっきりさせるべきだと考えました。

 

ここからも、混乱した世の中だからこそ、実体をはっきりさせることが大事だったのではないかと思います。「正義とは何か」「徳とは何か」、確かにそういったことがはっきりすれば、混乱も治まるかもしれません。しかし、この言葉による差異を取ることを唱えたのが、荘子という人物です。ここからわかることは、いつの時代でも、肯定したり、否定したりが続いて発展していったのだということがわかります。

 

さて、賢明な生き方とは?

いろんな考え方がある中で、仕事では儒教の教えが役に立ちそうだし、普段の生活では道教の教えが役に立ちそうだし、あるときには性善説をもとに考え、あるときは性悪説をもとに考える、などとその状況によって臨機応変に考え方を持っていると役に立ちそうだと感じました。さてそれでは、最後に「賢明な生き方」とはどんなものなのか考えたいと思います。

 

諸子百家の思想の流れの中には、哲学(論理)と宗教を区別する枠組みはありませんでした。ですから東洋思想は、宗教という枠ではなく、「人間のあり方を説いたもの」「どういう風に生きたらいいのかを説いたもの」だといえます。これらは、西洋思想とは異なるスタイルで、世界や人間の根源的なあり方について考えるものです。

 

道教では、タオに従って生きることを理想としていました。自然の法則を参考にして生きるということです。これを無為自然と表現していました。タオは、仏教の諸行無常、空、因縁といった言葉と通じるものがあると思います。

 

無為自然に生きるには、知足、小国寡民、心斎坐忘といった言葉がキーワードになってくるでしょう。しかし、無為自然に生きるには、現代では誘惑が多すぎるのではないか、とも感じます。

 

そう感じたとき、ミシェル・フーコーの思想を私は思い出しました。フーコーは、人間の思考や感情は、各時代の「知の枠組み」に支配されていると言います。人間は自分の意思で主体的に行動しているのではなく、社会の構造に縛られていると言うのです。

 

(フーコー以前に、レヴィ=ストロースは、人間の思考や行動は、その根底にある社会的・文化的な構造に無意識のうちに支配されていると考えました=「構造主義」)

 

フーコーや、レヴィ=ストロースの考えを思い出したとき、「縛られている」「支配されている」というのが、わかったような気がしました。「この人の考えは儒教的だな」と、私が考えたのも、この日本にも、そういった「知の枠組み」が昔から存在していたからです。さて、私たちの生き方は、儒教や仏教の思想に縛られているのでしょうか?

 

構造によって縛られているからこそ、お飾りな人ばかりが増えた世の中になっているのかもしれません。しかしどの時代でも、そんな人が増えては、そうやって憂いていたのかもしれませんね。

 

さらに考えれば、そもそも人間の持っている「思考」自体がコントロールできないものです。たとえば、「考えない」と選択したとしても、自然に考えは頭に上がってきてしまいます。思考をコントロールできるのであれば、「今から10分間は何も考えない」と、できるはずです。

 

けれども、「何も考えない」ということは実際にできません。つまり思考に対して、コントロールできない、権限を持っていない、ということになります。思考は私ではないということです。その人が考えているわけではない、と言えます。

 

となると、やはり私たちは何かに「支配されている」「縛られている」と考えられるかもしれません。それが「儒教的な生き方」なのか、「道教的な生き方」なのか(その他もろもろ)という違いなのでしょう。

 

荘子であれば、どんな生き方であっても「今を思う存分に楽しもう!」と言うかもしれませんね。結局は、賢明な生き方など存在しないのかもしれません。「縛られる生き方もよし」「世界を広く使う生き方もよし」といった、自分の心に従う生き方がいいのではないでしょうか。

 

王陽明は、知識は持っているだけではなく、行動に移さなければいけない、と言っていました。賢明な生き方をあえて言うのならば、自分の心を信じて、行動することなのかもしれませんね。さてあなたは、自分自身の賢明な生き方をどう考えますか?

 

 

 

以上が東洋哲学まとめでした。最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

 

 

【参考文献】

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

哲学用語図鑑 [ 田中正人(グラフィックデザイナー) ]
価格:1,980円(税込、送料無料) (2023/9/11時点)









お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023/09/14 07:30:09 AM
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.