テーマ:気になるテレビ番組(2866)
カテゴリ:トリビア
幕末の京都に生まれ、女性参政権がなかった明治期に、炭坑事業、銀行や生命保険事業に従事し、日本で初めての女子大設立に尽力した広岡浅子の生涯、
NHKの朝ドラ■「あさが来た」■を楽しみに見ている。 あさは、京に生まれ、大坂に嫁ぐのだが、当時の交通は、徒歩か船。 京から大坂までは、下りだと半日で行けた。 多くの船が行きかっていただろう。 京の鴨川の近くを流れる高瀬川をご存知だろうか? かつては、ここも荷物の運搬に使われていた。 しかし、小舟が一艘しか通れないほどの川幅。 すれ違うことが出来ないのだ。 だったらどうするか? 下り、京から出て行く舟は午前中、 午後からは、上り、大坂からの舟というように決めていたそうだ。 数年前■大阪あそ歩■の京都版に参加した時に聞いたトリビア。 また、大坂から京に行くのは徒歩だったようで、ドラマの中で、 「まぁ、まぁ、わざわざ、舟で来てくれたんでっか?」と聞いていた。 京から大坂に行くのは、舟、その反対は、徒歩というのが、江戸時代の京・大坂の交通。 近い方だったんだろうが、日帰りは無理。 今は、JR、阪急、京阪、近鉄と選べ、JRなら30分以内。 日帰りどころか、通勤距離だ。 現在のように道路や鉄道など陸上の交通機関が整備されていない時代に、船による水上輸送は、人や馬による陸上輸送よりも安定した輸送方法でした。 淀川のように比較的流れが穏やかで、豊かな水量を持つ川は、水上輸送に適していたため、最盛期の江戸時代には京―大坂間で人や荷物を運んだ*「三十石船」*や、枚方あたりで船客に飲食物の商売を行う「くらわんか舟」など1000艘以上の船が行き交いました。 ■江戸時代に淀川と並んで■ 京―大坂を結ぶ交通路として利用されたのは「京街道」と呼ばれる街道でした。 京街道は豊臣秀吉が、慶長元 (1596) 年に淀川左岸沿いの京―大坂間に築いた「文禄堤」の上を道として利用したもので、京と大坂を直通する初めての道となりました。 江戸時代になると宿駅が設置され主に大坂から京都へ向かう際に利用され、明治時代には国道となりました。 京街道には伏見、淀、枚方、守口に宿駅が設けられ、大名行列の武士をはじめたくさんの旅人に利用されました。 紀州藩の大名行列が通ったこともありましたが、京街道の利用は、大坂から京へ向かういわゆる「上り」の利用がほとんどでした。 これは多くの人が京から大坂へは淀川の舟運を利用したためで、京街道の宿は片道だけ利用され「片宿」と呼ばれました。 **「三十石船」** 京―大坂を結んだ貨客船。 江戸時代末期頃には1日平均約1500人と800トンもの貨物を運んでいたといわれています。 大きさ:長さ約17m、幅約2.5m 定員:船頭4人、乗客28人 所要時間:上り (大坂から京) 約1日、下り (京―大坂) 約半日 ・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.01.05 22:38:57
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