カテゴリ:読書
下落合で弔いを専門とする墓寺、青泉寺。 お縁は「三味聖」としてその湯潅場に立ち、死者の無念や心残りを取り除くように、優しい手で亡骸を洗い清める。 そんな三昧聖の湯灌を望む者は多く、夢中で働くうちに、お縁は二十二歳になっていた。 だが、文化三年から翌年にかけて、江戸の街は大きな不幸に見舞われ、それに伴い、お縁にまつわるひとびと、そしてお縁自身の運命の歯車が狂い始める。 実母お香との真の和解はあるのか、そして正念との関係に新たな展開はあるのか。 お縁にとっての真の幸せとは何か。 生きることの意味を問う物語、堂々の完結。 ■出世花■ の続編。 「夢の浮橋」の中で、永代橋崩落事件が題材になっているのがある。 橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であった。 橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。 元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士の吉良上野介屋敷(所在地は現墨田区両国)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという。 ■落橋事故■ 幕府財政が窮地に立った享保4年(1719年)に、幕府は永代橋の維持管理をあきらめ廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。 通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが文化4年8月19日 (旧暦)(1807年9月20日)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日(深川祭)に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こした。 橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し死傷者・行方不明者を合わせると実に1400人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。 この事故について大田南畝が狂歌や「夢の憂橋」を著している。 永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼 南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っている。 上の史実も小説の中で知った。 架けられてから100年以上たった橋は、老朽化が進んでいたのだろう。 大事件だったのか事件を扱った多くの小説がある。 永代橋が落ち、1000人以上もの死者が出たという事件を読みながら、天神橋のことを思い出した。 1832年(天保3年)の天神祭において、橋上からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちたらこわいな」と童歌に歌われた。 この本のタイトルになっている「蓮花(れんか)の契り」。 蓮花(れんか)は、仏の花という意味である。 生きて契るよりも、より永遠という仏の道での契りという意味だ。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.08.12 00:07:44
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