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カテゴリ:驚くほどの古今東西の予言書
今回は、2000年前のイエス当時にタイム・スリップしていただく。 原理の第4章は『メシヤの降臨とその再臨の目的』である。
「歴史は繰り返す」という観点で、イエスの時も終末、そして、イエスの再臨の時も終末であるということは、同じような出来事が終末という今日にも起こるということである。それはまた、現代の私たちにとっては歴史が残した教訓としても有意義なものとなる。 イエスの時代、新約聖書はなかったし、ノストラダムスや韓国の『鄭鑑録』・『格庵遺録』は勿論、ハイカラな『原理講論』も存在しなかった
ユダヤがローマの属領となり、ユダヤ人たちが望んでいたのはそこから解放してくれる王であった。また、その王(メシヤ)が来る前に預言者エリヤを遣わす、というのが(旧約)聖書最後の予言である。
自分たちを救ってくれる王の出現を待っていたのは事実だが、それに先立って来ると予言されているエリヤの再臨も、彼らは待ち望んでいたのである。 ところが、そのエリヤの噂もないままにイエスがメシヤを名乗って出てきた。
むしろ、この予言がイエスに災いした。 もちろん、エリヤに関してはイエスもいくつかの言及をしている事は、新約聖書からも読み取れる。 洗礼ヨハネが、後にヘロデ王につかまり牢獄から彼の弟子をイエスの元へ送った。そして、「あなたは、メシヤですか?」と尋ねたのである。イエスのこの時のやるせない思いが、聖書には記されている。 まさに、この洗礼ヨハネの無知・不信こそがイエスを十字架へ追いやる元凶となったのである。 さて、原理ではイエスの「十字架による救いの摂理」についても詳しく書かれている。 旧約聖書からは、メシヤ降臨の予言については二通りの予言がされている。このシリーズ初めからも、予言のいい加減さを挙げているがそれである。 一つは、ユダヤの王としての華々しい予言。そして、もう一つは苦難(十字架)の予言である。 では、再臨に際しても、もう一度十字架にかかるためにイエスは来られるのだろうか。 さて、新約聖書もまた、旧約聖書同様に二つの予言が書かれている。
現代の洗礼ヨハネは一人か、というと、必ずしもそうではないようだ。
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Last updated
2017.10.12 22:51:31
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