1年以上にわたって渋谷の家庭連合本部前でカメラを回し続ける澤田氏だが、彼が支持するサンクチュアリこそがどうなのか訊ねてみたいものだ。
サンクチュアリは母親を挿げ替えたなか、姜先生に「原罪があるのか? ないのか?」
それによっては七男さんがされる「祝福式」が本物かどうかも分かろうというものだ。
私tomy4509からは何度も取り上げてきた原理講論P.264がある。
原罪のある父母が、原罪のない善の子女を生むことことは出来ない。したがって、この善の父母(独生子・独生女)が、堕落人間たちの中にいるはずがない。
姜先生は何所から来られた方かは、私たちのよく知るところだ。また、アウグスティヌスと霊肉祝福を受けられたりもしていたのだが……。
サンクチュアリは母親が違う「異母兄姉」ということになるのだろうか(?)。
アブラハム家庭では異母兄弟イシマエルがいたが、イサクとは袖を分けた。
創世記/ 21章 08節~14節
さて、おさなごは育って乳離れした。イサクが乳離れした日にアブラハムは盛んなふるまいを設けた。 サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。 この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。 神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。 しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。 そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
アブラハム当時はそれでもよかったかもしれないが、こんにち、真の父母様が来られてのちは「重生」でもって三男さん・四男さん・七男さんといえども、イエス様がニコデモに語られたように、もう一度母の胎に入って肉からでなく「霊から生まれ」たものとならなければならないだろう。
ヨハネによる福音書/ 03章 01節~
……イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。 イエスは彼に答えて言われた、「……よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。……それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
「よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。」は、こんにちの分派の方々の姿そのものでもある。
原理講論にも書かれた「独生女」、お父様が語られた「独生女」を見ようともしない。
何故か。
「信じない者は、すでにさばかれている。(こんにち)
神の「ひとり娘」の名を信じることをしないからである。 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。 」
サタンが恐れる「独生女」、分派の方々が「お母様の独生女」批判をされる理由はここにある。
サンクチュアリの母親の挿げ替えは「(サタンの)血統」を再び継承したものであって、天の血統とは何ら関係しないものである。
三男派FPAの主張するところの「お母様、元の位置にお帰り下さい」もまた、原理講論を逸脱したものである。
私たち祝福家庭は創造理想を完成したアダム・エバ、「独生子・独生女」「真の父母様」から祝福を受けた。もしも、創造理想を完成したエバに
「主管性転倒」ということがあるとするならば、これもまた、原理講論との矛盾を見い出すこととなる。
三男派の主張は「再堕落を承認」しているようなもので、結局のところは祝福自体の価値も認められない、といった結論を導き出しているようなものだ。
(六)堕落性本性
天使が神に反逆して、エバと血縁関係を結んだとき、偶発的に生じたすべての性稟を、エバはそのまま継承したのであり、こうして天使長の立場におかれるようになったエバと、再び血縁関係を結んだアダムも、またこの性稟を受け継ぐようになった。そして、この性稟が、堕落人間のすべての堕落性を誘発する根本的な性稟となってしまったのである。これを堕落性本性という。
このような堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。それでは、善の目的のために創造された天使長から、いかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていたはずであった。このようにして、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということを比較し、識別することができたのであり、またその上に欲望をもっていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあったということは当然なことである。そして、こういう思いは、自動的に嫉妬心を生ぜしめたのである。したがって、このような嫉妬心は、創造本性から誘発されるところの、不可避的な副産物であり、それはちょうど、光によって生ずる、物体の影のようなものであるといえよう。しかし、人間が完成すれば、このような付随的な欲望によっては決して堕落することはできなくなるのである。なぜなら、このような欲望を満たすときに覚える一時的な満足感よりも、その欲望を満たすことによって生ずる自己破滅に対する苦痛の方が、もっと大きいということを実感するようになるので、このような行いをすることができないのである。
分派の方々は、もう一度「原理講論」に帰られることによって「真の父母様」の価値を再認識されることをお薦めする。
「肉から生まれるものは肉であり、
霊から生まれるものは霊である。」
お父様は聖和されてこの地上に居られないとしても、この言葉よくよく嚙みしめてくださることを願う次第である。
一休さんのような機知(トンチ)ではありません。
奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵
世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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