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カテゴリ:UCI、サンク
シムソン(恣意存)氏2019/12/28記事以下より。彼もここまでくると哀れとしか言いようがない。 2004年当時から韓氏オモニの堕落を覚悟しなければならなかった神様の悲劇! 2004年5月10日は三代王の誕生という祝賀と同時に、韓氏オモニの堕落の危機も抱えている状態だったのです。そのことが、6月14日の雲の形象で、まざまざと表現されていたのです。霊通者と称しながらも、雲の形を見ては妄想を膨らまし自分勝手な解釈でH4に結び付けているに過ぎない。2000年以上も前のイスラエル民族が空を仰ぎ見てはエリヤの再臨を待ち望んでいたように、こんにちなおそれを見つめては「雲に乗って来るイエス様の再臨」を待ち望むクリスチャンの姿そのものだ。 原理講論も見放した(矛盾している)なか、その実体としての「夜の神様、昼の神様」(真の父母様)を見ようともしない。 プームチャイさん、私、そして、日本教理研究院も同じ方向に向いている。ほか、12月28日は米国ニューヨークで3万名WCLC大会でも同様だ。 原理講論・総序からは ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。 新しい真理が現れなければならないという主張は、宗教人たち、特にキリスト教信徒たちにとっては、理解し難いことのように思われるかもしれない。なぜなら、彼らは、彼らのもっている聖書が、それ自体で完全無欠なものだと考えているからである。もちろん、真理は唯一であり、永遠不変にして、絶対的なものである。しかし、聖書は真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書として、時代の流れとともに、漸次高められてきた心霊と知能の程度に応じて、各時代の人々に与えられたものであるために、その真理を教示する範囲とか、それを表現する程度や方法においては、時代によって変わらざるを得ないのである。したがって、我々はこのような性格をもっている教科書そのものを、不動のものとして絶対視してはならないのである(前編第三章第五節参照)。既に述べたように、人間がその本心の指向性によって神を求め、善の目的を成就するために必要な一つの手段として生まれてきたのが宗教であるとするならば、あらゆる宗教の目的は、同一のものでなければならない。しかし、それぞれの宗教の使命分野は、民族により、あるいは時代によってそれぞれ異なるものであり、それに伴って、上述のごとき理由から、その教典も各々異なるものとなってしまったので、各種各様の宗教が生まれるようになったのである。すなわち、教典というものは、真理の光を照らしだすともしびのようなものであり、周囲を照らすというその使命は同一であっても、それ以上に明るいともしびが現れたときには、それを機として、古いともしびの使命は終わるのである。既に論じたように、今日のいかなる宗教も、現世の人々を、死の影の谷間より命の光のもとへと導き返すだけの能力をもっていないということになれば、今や新たな光を発する新しい真理が現れなければならないといえるのである。このような新しい真理のみ言がやがて与えられるということは、聖書の中にも数多く記録されている(前編第三章第五節参照)。 このように、人間を命の道へと導いていくこの最終的な真理は、いかなる教典や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも、編みだされるものではない。それゆえ、聖書に「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙一〇・11)と記されているように、この真理は、あくまでも神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである。それゆえ神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人のお方を遣わし給うたのである。そのお方こそ、すなわち、文鮮明先生である。先生は、幾十星霜を、有史以来だれ一人として想像にも及ばなかった蒼茫たる無形世界をさまよい歩きつつ、神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた。人間として歩まなければならない最大の試練の道を、すべて歩まなければ、人類を救い得る最終的な真理を探しだすことはできないという原理を知っておられたので、先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである。また、「文亨進様が真の後継者であることを立証する60の論題」小冊子(紙くず)も60番まで終わり、上から次のもの(情報)が降りてこなければ、とうごま氏も静かなものだ。典型的な指示待ち族。私からの矛盾点の指摘に対してとうごま氏の考えなど一切ない。 「H4が後継者である」といった初めに結論ありきの「60の論題」に『正論』はない。 「60の論題」全てが没、(500円の値打ちもない)タダの紙くずでしかない。「文亨進様が真の後継者であることを立証する60の論題」小冊子(紙くず) ●目 次 ほかサンクメンバーも同様のようだ。私がカテ・サンクに10%を登録して1年になろうとするが、最初に見たものは間違った情報を信じては、お母様「独生女」否定、父母様の一体化否定であり、Kの兄弟を並べてはH4とKのアベルカイン勝利といったとんでもない話だ。明らかな間違いの証拠画像・映像を突き付けても、シムソン氏、ロードさんほかはH4一筋の「亥年、猛進(盲信)」の年だったようだ。来年は「子(ネ)年」、少しは頭を働かせては牛(女性時代)」に乗っかって孝情の道に進み出られることを願う。 間違った情報や妄想・妄信では正しい道を踏み出すことは出来ない。 へブル人への手紙第11章1節~ さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。H3、H4ともに、最早、家庭連合の「後継者」などということ自体が「道化師」となった。 なおもの家庭連合批判、お母様「独生女」批判もまた、「批判のための批判」「反対のための反対」でしかなく、根拠とすべきものは何もなくなった。天の側が「家庭連合」であるとすれば、それに逆行する行為は「悪神の業」ということになる。お父様の遺言ともいうべき八大教材教本に書かれた「独生女」「天の父母様」否定のH3、H4が天の側に立っているとは思えないのが、私個人の意見であり、支流人の方々への「愛のメッセージ」である。これに心を止めていただきたい。 28日15時(日本時間29日早朝5時)から、米国ニューヨークでWCLC3万名大会が開催される。コスモスさんの戯言「これは衝撃だった」も明日には吹っ飛んでしまうだろう。 さて突然だが、「奇知外記」のカテ・サンクへの参加登録はロードさんらの反対もあったが、わたしからブログ村へは「1年間期間」の許諾をお願いしていたものだった。その約束期間もまだ残ってはいるが、それを待たずに、「今日」移動することとなった。 2020VISIONの基元節7周年、父母様ご聖誕100周年の記念行事をどこで過ごされるか、サンクのお一人お一人が今日にも判断されていかれるべきであると思う。その日までちょうど40日である。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2019.12.28 23:18:58
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