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2021.03.11
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​​​​​​​​​​​愛天者と愛国者となろう​

一九五九年三月一日(日)前本部教会


 この時間に話す題目は「愛天者と愛国者となろう、天を愛する者と国を愛する者、即ち愛天者と愛国者となろう」です。


 人間を善の方向に導いて来られた神

 本来人間は、天を愛し、兄弟を愛し、この地を愛するようになっているのです。天と人間と地を、すべて愛さなければならない存在であったのです。

 神様は本来、人間を創られるとき、天を愛することを知り、兄弟を愛することを知り、地を愛することを知る人間を目標にして創造されたのです。ところが今日、地上に生きている人間はすべて堕落の後孫であるゆえに、天を愛することを知らず、兄弟を愛することを知らず、この地を愛することも知らない人間になってしまったのです。これが堕落による哀しみです。

 それゆえ天はこの哀しみを抱いて、堕落した人間を本然の人間に回復させるために今まで、六千年という長い歳月の間どんな闘いもものともせず、犠牲を重ねてこられた事実を皆さんは知っています。即ち、失った人間を復帰しなければならない天的な責任を持って人間を捜し求めて来られたことを、我々は知っています。

 今日我々は神の復帰摂理のみ旨は知らなくても、自分の心は密かに天的な因縁に従っていて、その天的な因縁は私の生活と人生を支配しているという事実を、我々は実際の生活で多く体験しているのです。

 それではどうして皆さんの心は、われ知らぬうちに善なる大きな理念の世界を憧憬して休む間もなく動いているのか。皆さんの心がどうして、自分が願う方向に動いていかないのか。それは皆さんが考えず、知らない方向へと率いる神、即ち、皆さんが考える以上の因縁を通して、経倫され苦労されている神がおられるからです。このように我々の心は、善の理念に率いられてゆくのです。

 天は最高の善であり、最高の理念です。この天は我々人間の最高の生命であり、最高の所望の中心として過去にも動き、現在も動き、未来にも動いてのですから、我々の心はこの天の指向する善の方向へと率いられて行っているという事実を、我々は悟らなければなりません。

 皆さんが善を指向する心情を持っていて、善なる天禀を持っているとしても、皆さんはこれを自分のものだと大言しては駄目です。また天禀を元にして自分の体が造られ、善なる段階にいるとしても、この体は自分のものだと自慢しても駄目です。

 良にして善なるものがあり、他人のまえに光るものがあったとしても、これを自分のものとのみ思って、自分のものとして現しては駄目です。天が皆さんをこのように因縁づけられたにもかかわらず、皆さんがこれを忘れて自分を立てて誇る立場に立ったなら、その時から天的な罪を犯す立場になるという、恐ろしい事実を知らねばなりません。今日我々は、我々の周囲に暮らしている人々の中で、往々にしてこんな罪を犯すことを目撃するのです。

 今日我々はすべて善なることを望み、義なることを望んでいます。このように我々には善になろうとする心と、義なる方向へと動いて行こうとする心があるとしても、この心もまた皆さん自身のものではないのです。この善なる心の歴史を探って見れば、六千年の人類歴史が表れてくるのであり、さらには神の創造の歴史が表れてくるのであり、神の創造本然の心情が表れてくるのです。

 ですから皆さんはこのような歴史的な因縁と、時代的な因縁と、未来的な因縁を代身して、その中心を通して動いている本然の善を、所有しなければなりません。

 皆さんがこの善を、皆さんのものとして所有しようとするとき、誰かがその道を妨げ、この善に反対となる条件を示すなら、これが法度的な条件に引っ掛からないと言い切れるでしょうか?

 今日人間は、このような善の心を捜し求めねばなりません。さらにはこのような善の心を持って、この心が自分の為に動くのではなく、全体的な善の主体に向かって動いてゆかねばなりません。であるにもかかわらず、これを知る人間が多くないことを我々は知っているのです。


 善の実現と良心作用

 元来、善というものは自体内で成される法はありません。善は自分を越え、環境を越えて、世界を越えて創造主の善と因縁を結ぶところにのみ成るのです。実績が残る路程にのみ、この善という名詞が立てられるのです。

 我々はこのような善の方向を求め、その目的地を知り、そこに向かって動いて行くと同時に、善なる自体となって、善なる生活の実績を残さなければなりません。今までの歴史路程にこのような事実を知り、すべての事に責任を負い、自信をもって生きてゆく人間がいなかったと言っても過言ではありません。このような人間を抱えて、神様は今日まで苦労して来られたのです。苦労をしてもこの苦労に答えることのできない人間、死の道で自分の命が救われても感謝することを知らない人間を、六千年の間率いて来られたのです。 このような歴史的な哀しみの路程が、今日皆さんの代で終わらなかったら、皆さんの後孫にまで延長されるのです。この哀しみの路程が皆さんの生活の中に、皆さんが呼吸している生命の上に流れているという事実を感じる人間にならないなら、国を愛し、天を愛するという言葉は嘘だということを、我々は考えざるを得ません。

 一日の生活も、善を根拠とする心でなけれななりません。善なる心が我々の生活を支配しなればならないのです。それで今我々は生涯の目標を成してゆくとき、善の理念圏内で誇ることができる実績を立てなければなりません。そうではない者は歴史路程と、天的な善を捜し求めてゆく復帰路程に、どんな貢献どんな実績も残すことのない者と見る他ありません。

 それでは人類の堕落はなぜ生じたのか? 自身の生涯を自分のものとのみ思っていたので、堕落したのです。人類の始祖であるアダムとエバは、自分たちによって万事が成ることを知り、自分たちを根拠としてすべての事が出発することを知り、自分たちにすべての目的が結実することを知っていたので、堕落したのです。これを皆さんは知らねばなりません。

 従って我々は、先祖たちが犯した罪を暴露し、自分を根拠として何でも解決しようとする心を、捨てなければなりません。その代わり民族と、世界と、天と地を懸けて解決するという真の心を持って、善なる世界を指向する人間にならねばなりません。そんな群れがあるなら、天は彼らを捜し求めるのです。良心が指向する目的を立てようと摂理される天は、このような群れを求めておられることを、我々は肝に銘じなければなりません。

 このようなことを明らかにした後に、自分を再認識してここに自身の価値観、生活観、生涯観、人生観、歴史観、宇宙観を持って「天を愛します」とすれば、ここに愛の因縁が結ばれるのです。またこんな観点から国を愛してこそ、皆さんが本当に国を愛したとする立場に立つことができるのです。

 我々はこの道が歴史的な人物も行くべき路程であり、時代的な人物も行くべき路程であることを知り、このような方向で自分を再分析してみなければならないと見るのです。

 今日人間は堕落することによって、善なる良心作用は感じていても、善が指向する目的地は知らないのです。善を指向する良心の作用を受けても、良心の呵責を受けない善なる生活は、していないのです。

 今皆さんはこのような矛盾した立場に処している自分を明らかにして、新しい目標と、新しい理念のまえに自分を照らして見なければなりません。こうして今まで持っていたある認識、ある主義主張、ある観念を捨てて、新しい善の目標に向かって行くのです。終わりの日のこの時代の人類は、この善の目標に向かって行くべき危機に面してしていることを、我々は知らねばなりません。


 真なる愛天者とはどんな人間か

 ところで堕落した人間は、どの時点まで落ちたのか? 神の創造理念と正反対の立場まで落ちたのです。

 人間は本来この世の中を、自分たちの世の中と思って愉み、全人類が一つの宗族として生き、また創造主神を自分たちの神として、侍って生きなければならないのです。

 ところが今日地上の人間たちが、自分の世界を成していますか? 成してはいないのです。全人類を一つの宗族と考える人間がいますか、国家がありますか? ありません。また神を自分たちの神として侍り、生きる群れがありますか? ありません。

 それゆえ我々は善の基準を捜し立てた次に、我々の力とすべてのものを注いで、我々の世界、我々の宗族、我々の神を捜し求めなければなりません。これが堕落した人間が求めて成すべき歴史的な使命であることを、我々は知らねばなりません。

 我々の神は虚しく消え去り、我々の宗族である人類も四方に散り、我々が主管すべきこの地もバラバラに分けられてしまったのです。

 創造主がおられるなら、その創造主の理念が何でしょうか。この地を我々の地として造ろうとすることであり、この人類を一つの宗族、一つの兄弟にすることであり、我々を神と一つに和するようにすることです。こうして創造主がこの人類の神として、世界の神として、現れようとされることを知らねばなりません。

 それでは「私は天を愛します」と言う愛天者がいるとすれば、彼はどんな人間でしょうか? 彼は我々の世界を捜してさまよう者であり、人類全体を一つの宗族として造ろうとさまよう者であり、創造主神を我々人類の神として、世界の神として親しく侍って生きようとする者です。このような者をいわゆる、天を愛する者というのです。

 今日人間はこのような標準を喪失してしまったので、善が動く心の作用を感じても、善の実績を求めるにもも求められない生活をしていることを、我々はよく知っています。

 善の作用は創造理念、人間が成すべき天的な理念、世界的な理念を中心として、我々の心のうちに絶えず起こってくるのですが、これを無視して断ち切って蹂躪して生きてきた我々であることを、この時間にいま一度、骨肉に染みて感じてみなければなりません。

 このような人間にならないとしても、堕落した人間として神を愛するという場に入ろうにも、到底入ることができないという事実を、皆さんは知らねばなりません。

 それでは今皆さんが、ある誠精をすべて注いでやるべき事が何でしょう? どんな犠牲も覚悟してやるべき事が何でしょう? 神様が所望とされる世界、人類が所望とする世界を成す事です。神様は一父母による血族、即ち神を中心とした一つの宗族を求めておられるのです。神を中心とした、一つの家庭のような世界を求めておられるのです。我々はこれを知り、この基準に合った生活をする人間にならねばなりません。そんな人間にならなかったら、神様が求めておられる理念的な世界、理念的な人類、理念的な天国は成すことが出来ないのであり、成したとしても我々とは何らの関係もないことを、我々は悟らねばなりません。

 神様は人間を創造して祝福され「万物を主管せよ」とされました。「地に満ちるほど繁殖せよ」とされました。人間がこの御言をすべて成して完成したら、神様はその完成した人間を自ら主管されようとされたのです。これが創造の基準でした。ところが人間はこの基準を今まで完成しなかったのです。それゆえ我々は、地を主管できない者たちであり、真の愛の世界において繁殖できない者たちであり、真の神の愛を受けられない者たちなのです。これが我々の悲しみです。このような因縁圏内にあるゆえに、我々はサタンの試みの祭物になっているのです。

 このような人類を天は再び立たせ、地を主管させるようにし、善の功績を積んで悪にからまれた堕落した人間のすべてのものを精算して、これを再び和合させて天の血族として造ろうとされるのです。そうした後にこれを主管なさるために、神様は動いておられるのです。これが人間が指向してゆく歴史的な目的であり、人類が心から憧憬する所望の基準であるのです。

 我々はそのような所で生きるべき存在なのです。ですから我々のすべての要素が、体と心が所望とするその所に向かって行くことを、限りなくあり難く思う我々でなければなりません。


 神を中心とする愛の世界を建設すべき人間

 ところが天を失い、本然の兄弟を失い、落ちるままに落ちないで目茶苦茶に落ちた人間は、逆にこれを捜し求めているのです。本来は神の愛を受けて、兄弟と愛の因縁を結び、夫婦同士が愛の因縁を結び、その後に父母に侍らなければならないのですが、神と愛の因縁を結ばないで、堕落した人間になってしまったのです。ですから真の父母、真の夫婦、真の兄弟だと大きなことを言う人間がいたとしても、神の愛を中心とする真なる関係を結ぶ人間は、一人もいないのです。

 我々はこのような宗族であるゆえに、人間が主管するどんな物も、神のものであると主張する何らの理由もないのです。神のものとして創られたこの世界が、人間のものにもならず、恨めしくもサタンのものになったのは、何としたことでしょうか? 神のものでなければならず、人類のものにならねばならないこの地が、神や人類のどちらのものでもなく、出し抜けにサタンの所有になってしまったのです。これを見やる天の悲しみを体恤する者、人類の悲しみを体恤する者が出てこなれば、この世界をサタンの所有から解放させる運動をすることが出来ません。

 神様はこの運動を展開するために、長い歴史路程を経て来られて、人間に良心の作用を起こさせてきたのです。神様が主管すべき人間を失ったので、時代々々ごとに時を迎えて中心人物たちを送ったのです。人類のすべての問題に責任を負い、人類がやるべき使命と時を知らしめるために中心人物を送ったのですが、この人々が誰かといえば歴史路程に往来した先知先烈たちでした。

 人間は堕落して神の創造期間の六日をすべて失ってしまい、安息日という一日を通して神に対するようになったのです。このようになって、常に対するはずの人間を失った神はそうできる契機を求めてさまよい、限りない苦労もいとわず、人間を捜し求めておられるのです。ところが人間は神様がどんなに苦労されているか、まるで知らないのです。

 それでは時を迎えて来ては行った先知先烈たち、時代的な使命に責任を負い、来ては行った天的な人々は、この地に何を提示したのか? 地のいかなる存在価値も認めないで、天を信じよと主張したのです。人間が生きているこの地が、永遠なる地ではないと主張したのです。また地の上での命が永遠の命ではないと主張したのです。地上で愉む幸福は永遠の幸福と何らの因縁がないことを、歴史路程において提唱して行ったのです。

 神様が六千年の摂理路程において一時期、一時代を代表する苦労の実体として送られた先知者たちを、捕らえて殺すために血を流して闘ってきた罪の祖先を持つ我々、天倫のみ旨に背反した歴史的な背反の罪状を持つ我々、神様が送られた人のみならず、神様まで背反した祖先を持つ我々、今日このような我々がどのような立場にいるのか、再度考えてみるべき時が来たのです。

 天はこのような人々を立てられ、堕落した人間と因縁を結ぶために無限の苦労の路程を経て来られたのです。このような苦労が積みに積まれたのが天の悲しみであり、地の悲しみとして残ったにもかかわらず、この悲しみを認識してもみないまま、自分個人の事をおいて悲しんでいる人間、自分の家庭の事をおいて悲しんでいる人々は多いのですが、天と地をおいて悲しむ人間は、一人もいないのです。

 終わりの日が近づいて来たと、異口同音に言うこの時に、皆さんは天の哀れさと悲しみを抱いて嘆く人間がいないことを知る、天の心情を感じてみましたか? 神様は六千年の間、嘆息し、後悔されながらも人類を抱えて闘って来られたのに、人間は未だに天のまえに嘆息の条件として残っているのです。ところが今日皆さんは、心の門を開き、天と地と全万物に染みている天の悲しい心情、泰山よりも高く積まれた天の悲しい心情を推し量ってみましたか? この悲しみはどんな民族の悲しみよりも、どんな国家の悲しみよりも大きいのです。今まで人間が悲しんできたどんな悲しみも、比べることができない悲しみであることを、我々は知らねばなりません。

 自分中心の思考方式を捨てよ

 我々が天を愛する愛天者の群れに同参する人間であるなら、このような運命の道を行くべき堕落した人間の後孫であるなら、我々の心中に善を指向する心が爆発して、天と全万物にまで染みている天の哀しみを感じて、その哀しみを解いてあげる責任を果たす群れにならねばなりません。そんな群れが現れなければ、大きな摂理のみ旨は成就できないことを、皆さんは知らねばなりません。

 ところが人間は今まで、自分だけを中心にして闘ってきました。自分の家庭を中心に、自分の国、自分の地、自分の民族を主にして闘ってきたのです。しかし天はそうではありません。神様は我々の世界、我々人類の為に、我々の神となる為に苦労して来られたのです。ところが地に生きている人類は、自分を中心とする家庭、自分を中心とする国家、自分を中心として主管する地を求めて、さまよっているのです。これが今までの歴史路程であったのです。

 人間は堕落することによって、天的な心情と良心と、体と心を失ったのです。ところが人間はこんなひどい事実を知らないまま、自分を中心とする物質、自分を中心とする体、自分を中心とする心、自分を中心とする情を追い求めているのです。このような人間を抱えて、自分を越えてゆく方向へと率いる神の摂理がなかったとしたら、人類は滅亡してしまうのです。人類は滅亡するのです。

 こんな人類を目覚めさせようと、我々の心を通して日々の生活に命令される天に対し、我々は限りなく感謝しなければなりません。今日まで自分を中心にして生きてきた堕落した人間は、落ちるところまで落ちてしまったのです。それで自分を中心にして、地を捜し求めているのです。しかし堕落した人間は、本然の立場に行くべき復帰の運命におかれていることを、知らねばなりません。

 今日皆さんが持つ体は、宇宙的な価値を成すための体であり、皆さんが所有しているすべてのものは、宇宙と因縁を結んでいる祭物なのです。ところが人間は今まで、これを知らないでいるのです。皆さんにある天的な心情があるなら、その心情は宇宙的な、天的な心情と因縁を結んでいる心情です。ところがこれを忘れている人間、即ち、天と反対の立場にある人間と、天は因縁を結ぶために今まで苦労して来られた事実を、皆さんは知らねばなりません。

 今までの歴史路程において見たすべての事実は、自分個人を中心に闘うことでした。自分の一民族を中心に、自分の一国土を中心に闘ってきました。一つの主権の下で、自己の国土、自己の民族、自己の主権のために闘うところに留まっていました。利己主義を中心に今日まで、即ち、第一次大戦前後まで闘って来たのです。ところでこのような闘いに止まっていたなら、人類は滅亡へと駆け上ってしまうのです。

 今まで数多くの民族、国家が明滅しましたが、その民族や国家の為に忠臣であった人間は沢山いました。民族と国家を愛した人間は多くいたのです。その時代にその民族、国土とその主権を抱えて愛した人間は多くいたのです。ところでその愛国者たちは、みなどこへ行った。歴史上に名を残したその愛国者たちは、みな消え去ってしまったのです。歴史上の主権国家には多くの忠臣がいたのですが、今日このような忠臣の節と義の心は、訪ねても見られないほどに消え去ってしまったのす。

 我々が知らねばならないことは、今までの歴史的な事実を探って見るとき、多くの人々が地を奪うために戦い、国境を打破することをして来たのですが、こんな方法では本然の理想世界を建設することは出来ません。

 このように地を奪って拡張する帝国主義時代を過ぎた次に、我々人間は何を求めるのでしょうか? 世界的な帝国主義時代が過ぎた次に、人間を捜し求めなければなりません。そんな時が来たのです。そんな人間を求めて要求することが、主義と主張なのです。しかしある主義主張を中心にして地を占めようとすれば、その主義は主義として存続できません。皆さんは第一次大戦を峠として、新しい主義と理念を求めていった歴史的な事実を、否定できません。地を求めて戦った時代が過ぎた次には、人間を求めるために戦う時代が来るのです。この時が、理念を持って戦う時代なのです。


 民族観念を克服して天を愛する新宗教が出なければ

 この時代を過ぎて、その次にはどんな時代が来るのか。本然の人間が失ってしまったものを、取り戻さなければならない時代が来ます。万物を主管すべき責任が人間にはあるので、世界を我々のものとして造るために、我々の本心は動いているのです。ある主権を動かすことが出来る権限があるとしたら、この主権を世界的な標準にまで引き上げたいのが人間の本心です。ですから本性はある方向を提示して、我々の心を主管しているのです。 その次には「神の息子・娘として全世界に満ちよ」とされました。神の息子・娘として満ちよとされましたので、今日世界の格国は主義と思想を中心として、民族性を基としなければなりません。民族性を基として、民族観念を引き起こさなければなりません。人間は知らないのですが、天はこんな闘いをされているのです。

 こうして地を主管して、兄弟を回復した次には何をするのか。天を愛さなければなりません。これが人間が必ず行くべき運命の道ですから、これから新しい宗教が現れるとしたら、それはこの時代の宗教を克服する愛天的な宗教でなければなりません。

 地を求めてさまよう人間のまえに、これを求めるために民族を動員し、国境を打破して領土を拡張させてゆき、人類を捜し立てるべき天的な摂理時代に生きる人類のまえには、民族と民族の障壁を打破する主義と思想を立ててきたのですが、その次には何が来なければならないか。天を愛することができる主義と思想、宗教と教派の垣を基とする一つの主義が、必ず出なければならないのです。こうしてこそ復帰歴史の終結を見ることが出来るのです。

 ですから過去のようにある国土に欲望を持って、自分の民族のみを愛する心で侵略的な作戦を立てる主権国家は滅んでしまったのです。しかし他を侵略しても、近づく時代の新しい理念と接近する指導理念を立てて侵略したなら、その指導理念の効果が消滅する時までは、滅びることなく持続するのです。歴史はこのように流れた来ました。

 こうして今日まで、数多くの宗族が糾合してきました。ところでどんな民族が天的な理念に近い理念を持って、国家形態をなして動いてきたのか? 天的な理念と近い時は主権を行使できるのですが、そうでなくなるとこの主権が第三者に渡されるのです。また天的な理念により近くなり、より近づいてゆく理念を持つ第三者にその主権が渡されていって発展してきたのが、歴史発展の実情であるのです。

 今日は皆さんがご存じのように三・一節(三・一独立運動記念日)です。我々の民族は日帝から三六年間、限りない苦しみを受けてきました。日帝治下で苦痛を受けた我々民族の所望は何であったかといえば、日本が滅ぶことでした。我々の民族はこのような時が必ず来ることを願って、忍耐して生きてきました。外的な環境が拡張されてゆけばゆくほど内的に強い意思が積もるその流れが、今日の三・一節の爆発となったのです。第一大戦前後に、ウイルソン大統領によって主張された民族自決主義の影響によって三一運動が起こったことを、皆さんはよく知っています。

 アメリカという国が民主主義陣営の主導権を握って、民主陣営の全体を動かす一つの代表的な国家として今まできたのですが、これも天的な復帰摂理路程において、その指向する方向が、天に近いほどに残ることができるのです。もしもその間にヒビが生じる時にはアメリカも衰退の一途をたどるのです。

 我々は日帝三六年間に、数多くの愛国者たちを見ました。またこの国この国土に愛国者たちの血を流してきました。血を流しても彼らの心は、この民族は今はただ圧政を受ける立場にあっても、この環境で滅びるのではなく、きっと独立国家になるという所望を持って闘ったゆえに、今日の大韓民国という主権国家を回復させたのです。


 イエス様がメシアになることができた理由

 その愛国者たちが圧政下ですべての条件に対抗して闘ったことは、勿論民族を愛し、国土を愛する心があったからです。また彼らには勝利の一日を望み願う心と、その勝利の一日がきっと来ることを信じる強い心があったゆえに、そんな圧政下においても屈することなく、闘ってきたのです。これを我々は知らねばなりません。

 このように、一つの国を求めるときもそうなのです。まして天的な理念を求めるときにいおいては、よりいっそう変わらぬ信念と、変わらぬ同士愛を持って、聖土を所望とし、天を代身しなければなりません。こんな群れがこの世になかったなら、この世は天と因縁を結ぶことが出来ません。歴史的な流れに同伴して、天が摂理されるみ旨を受けてきた数多くの宗教人たちがいますが、その中においても歴史を経て来て、サタンとの血の闘争において悲惨な犠牲の祭物になったキリスト教徒が、正にこのような群れであることを我々は知らねばなりません。

 旧約四千年の歴史から、イエス以後二千年のキリスト教の歴史を見ても、他の人々はこの理念に対しては夢にも見ず、また、異邦の人々はまるで考えてもみないところで、天の教えに従って死んだ人間が、数限りなくいるのです。それのみならず、天の理念を捜し求めるときにおいても、数多くの人々が犠牲になったのです。

 このように歴史路程において、天の理念を捜し求めるために数多くの人間が犠牲になってきました。それでは天のみ旨を求め、このみ旨を成すために犠牲になっていった群れとこれに反して国家のために闘って犠牲になった群れは、どのような帰結点に達するのか。これがこの時代の我々にとって、気がかりな問題です。これからは世界政府主義の時代が来ると、人々は言っています。一つの政府の形態、一つの理念の世界に向かって、歴史は流れており、この二つは今日近くに接近しているのです。ところでこの二つが、互いに和合する気配が見えないでいるのが実情ですが、我々はこれをどうすべきなのか。

 ここにおいて皆さんは、歴史路程において天の為に無残に血を流した群れ、天の理念を握って闘っていったこの群れを、記憶しなければなりません。神様はある一時のために、彼らを率いて来られました。それゆえ地を奪い、主義を立てて人間を包摂する時代は必ず過ぎ去るのです。

 宗教はすでにある形態をもって、天が指向する方向へと動いていますが、人間の所望はその場まで行かないで中間で止まってしまっているので、歴史上に数多くの忠臣がいますが、彼らが今日歴史が輝くこの時に、世界が動いているこの時に誇るものが何でしょか? 我々韓国の六忠臣のような方たちが、世界的な次元で誇る何かがあるでしょうか? 民族的な次元においてのみ、誇ることができる方たちです。

 このような見地から、二千年前のイエス様と我々を比べて見れば、イエス様はどのようなお方でしょうか? イエス様は国家を統治し、世界を統治し、人類を統治することができる理念と資格を持って、神を父と侍り、神の独り子であると主張されたお方です。これ以上また、することがあるでしょうか? 正にメシアの資格があるというのです。

 今日我々は、何かの最後の息子・娘となり、この世のある主人の息子・娘となることを待ち望んでいるのですが、イエス様は創造主をおいて、自身がその独り子であるとされたのですから、果たしてメシアの資格があるお方なのです。

 このような姿で現れたイエス様は、どんな困難にも嘆くことがなかったのです。これが彼が人類のまえに残した、最大の貢献だったのです。イエス様はそんな信念を持って、どんな億千万のひどい暴風雨がぶつかってきても、その場において忠臣の気概を立てたがゆえに、今日万民のメシアとして賞賛されているのです。

 このような気概を抱き、一つの理念を成就するために生涯を捧げられたイエス、彼はその道を妨げる父母にも「やるなら、やれ」民族にも「やるなら、やれ」宗族にも「やるなら、やれ」教団にも「やるなら、やれ」とされたのです。すべてのものをみな捨て、抱えたものは世界と人類だったのです。彼は世界と人類を抱えて行ったのです。父母、兄弟、教団、民族が行くままに行ったのですが、そのまえに消え去っては駄目だと考えたのが、この世界であり人類だったのです。これがイエス様の中心となる考えでした。

 ですからイエス様はこの世界のまえに必要なお方であり、この人類のまえに必要なお方でした。そしてイエス様は天を抱え、天の為に生きてゆかれたお方でした。しかしイエス様は神様が必要とされお方でした。このように天地が必要とするお方ですから、メシアとならざえを得ないのです。今日我々は、これを知らねばなりません。

 何を捨て、何を得るのか

 今までの歴史をすべて収拾したなら、次に何をもって世界的な因縁を結ぶのか? これが今日、み旨と抱負と希望のある青年男女の解決すべき重大な問題です。また何を持ち、何を捨てるかということが、終わりの日の審判を見やる人類が最後の行動のために、選択しなければならない問題なのです。

 イエス様は当時の時代状況から見るとき、民族の反逆者でした。教団の反逆者であり、宗族の反逆者であり、さらには伝統の破壊者でした。しかし真の意味において、彼は破壊者ではなく建設者であり、反逆者ではなく愛国者であり、愛天者であったのです。このよな事実を人間は、今日に至って知ったのです。

 我々が真の愛国者というなら、彼はどんな人間でしょうか。真の愛国者、真の民族主義というなら、イエス様のように世界を一つの民族として考えなければなりません。

 ゴルゴダの道、十字架の道を堂々と行かれたその姿が、我々が尊敬すべきお方の姿であることを、いま一度考えて見なければなりません。イエス様が悔しくもこのようなイバラの路程を行かれたのですが、その悔しさを知ってくれる群れがどこにいるでしょう。逝かれた方の殉教の基台が地上に残り、彼の悲しみが天に染みている限り、成すべき天のみ旨が残っている限り、そのすべての悲しみを解くことのできる歴史的な終末の時は、必ず来るのです。この時を指して我々は、審判の日、終末というのです。

 今、終末の時代であると胸の奥深く感じるこの時に、皆さんはどこに行き、何を得なければならないのか? これは皆さんが自問自答して、解決しなければならない問題です。イエス様の断固たる行動を模範としてゆく群れが、果たしてこの民族に中に、この世界の中にあるでしょうか? 我々は視線を変えて他の角度からこのような群れを捜して見る、知恵ある人間にならねばなりません。

 皆さん! イエス様が死なれたその時代と、我々が生きているこの時代は何が違いますか? 何にも異なるものはないのです。ありません。何にも変わらない時代に生きている今日の我々が、あの時代に排斥されたイエスに侍ることができるかということは、考えてみるべき問題です。

 今日我々が世界を捜し求めるこの時代に平等を叫ぶ共産主義はどうであるか。「労働者農民を生かせ、同じように食べ、同じように生かせ」と叫んでいます。

 歴史の流れを、もう一度観察して見ます。これから世界を動かす民族はどんな民族なのか。世界を動かすことのできる主義は、どんな主義なのか。世界を動かしてゆく宗教は、どんな宗教なのか。これはまず御言が教えるように、善の理念と化してすべてのことをこれに依り、行動する民族主義宗教なのです。

 これが何の事かといえば、善というものは自分を中心にするものではないということです。自分の家庭を主として生きて、滅びなかった家庭がありますか? 自分の一国家を中心として世界を求めた民族の中で、残った民族がどこにありますか? こんな主義を中心にしてこの世界を支配し、永遠不変の理念を得たと大言壮語するようですが、見ていてごらんなさい。天を奪えば万事は終わりです。

 本来の人間は神に侍り、天倫を中心に生きるようになっているのです。このような人間の生活において、天倫の条件を代身するものが何かといえば、人間が持っている良心の基準です。この良心の基準のまえに理念があり、理念の基準のまえに天情があるのです。このような内的環境において、天倫を捜し求めてゆくことが復帰なのです。


 人類はみな同じ神の息子・娘

 我々の世界に訪れ、我々の民族に訪れ、我々宗族に訪れ、我々の国に訪れ、我々の主人に侍ることができるその日が、いわゆる天が所望とされる終わりの日です。その日が天のみ旨を持って地に来られたイエス・キリストが定めた終わりの日であり、我々が捜し求める所望の日です。天が所望とし、イエスが所望とし、我々がまた所望とする日であるのです。その日には、すべての事が解決されるのです。

 皆さん、再臨主は行かれたように来るのが復帰の原則です。あるものを無くしたら、無くした所に行って捜さなければなりません。故障を起こしたら、その反対の方向で、故障を起こした順序を経てこそ、故障を起こさない場まで戻るのです。これが因果法則に外れない鉄則ですから、再臨主も行ったように来るということを、知らねばなりません。失ったように捜し求めることを、知らねばなりません。

 今日この時代は、エデンの園でアダムとエバに許されたことを取り戻す時代なのです。今日この地上に生きている人間は、すべて堕落したアダムとエバの後孫たちです。皆さんも堕落した父母の子孫なのです。真の父母の子孫になっていないのです。それで再び、真の父母の子孫にならねばなりません。これが何の話かと言えば、皆さんは神と真の父母に直接対することができる神の愛の圏内で、真の父母様が両手を挙げてなされる祝福を受けて、夫婦となり、繁殖する真の父母の血族にならねばならないのです。ところが今日まで我々人間は、真の父母の子女としてこの地を真に主管してみないので、真の父母の息子・娘になることができないのです。道理がそうではありませんか?

 それでは今日は、四千年の間苦労されて人間のまえにどんな主義を立て、どんな主人公を立てられたのか。「この世界は私のものであり、全人類は私の宗族であり、神は私の父である」という主義を叫ぶ、イエスを立てたのです。こうして初めて人間と因縁を結ぶようになったのです。ところがこのようなみ旨を、地上においてすべて果たすことなく十字架につかれたので、逝かれたその主様は再び来るべき運命にあられるのです。これが民族的な審判の終わりの日が、世界的な審判の終わりの日へと、延長される結果を生んだのです。

 今日この世の中に、イエス様が行かれた通りに再び来るなら、すべてのことを捨てて逝かれ、果たせなかったイエスの目的が成されなければならず、イエスを主とする世界理念を得ると同時に、イエスを主とする宗族の動きが現れなければなりません。

 ですから統一の形態をもってゆく運動が、起こらなければならないのです。単にキリスト教の統一だけではありません。すべての宗教が一つの形態を成さねばなりません。

 キリスト教徒たちは「あ・・・! あなたは儒教を信じて、仏教を信じているので地獄に行く」このように言っています。ところが、そうはなっていないのです。行ってみるとそうではないのです。そのようになっているなら、私があの世に行って談判してみます。絶対にそうではありません。イエス様お一人をおいて四方から引き上げてゆくので、一つ所に早く集めなければなないので、横的には行けないので縦的に「お前が一番だ」といって追い込むのです。このように見るとき、今日人間は全部み旨の中にいる群れなのです。 イエス様は四千年の間、民族と血肉を捨てて積んだユダヤ教団、四千年を経て選び立てられたイスラエル民族を放棄されたのです。とはいえ彼らは神と因縁がない民族ではありません。絶対的な因縁がある民族でした。どんな立場であっても「神は我々の神だ」ということのできる民族でした。このようなイスラエル民族をイエスが放棄したので、天も放棄し、地も放棄し、人類も放棄したのです。それゆえユダヤの民は世界で最も悲惨な群れになったのです。世界を流浪漂泊して、この民族、あの民族にと追われたのです。

 天を所望としている今日の我々も、悲惨な生活を沢山しています。これを今までは人々が知らないのですが、我々の一日が来れば世界歴史路程の動きにおいて、我々が無視することができない位置に立つのです。

 イエスを背反しなかったなら、栄光なる世界理念を獲得することができた民族が、苦労と逆境の中で世界の理念を捜し求めてきたので、祝福を受ける民族も受けない民族も同じになってしまったのです。

 イエス様が、天が四千年間念をいれた民族を捨てて掴んだものが、世界なのです。イエス様はユダヤ教を中心とする、宗派的な観念に囚われることがなかったのです。ユダヤ民族が信じなくてもいいという覚悟で、新しい理念をもっていったイエス様であったことを振り返って見るとき、今日のキリスト教徒たちには、覚醒すべき一面があるのです。


 心情で世界を統一する天民となれ

 このような内容を全体的に整理してみるとき、民主主義の形態をもって、主義と思想をもって、理念的な宗教の統一形態を得てゆく鉄則があることが分かるのです。この時に、民主陣営に残る群れとなるには、どうしなければならないでしょうか?

 民主陣営に残る群れとなるには、イエスと同じでなければなりません。イエスのように全世界の為に、全人類の為に、天の為にすべてを捨てることを知れば、その国は残るのです。自分の下着まで奪われても「おお ! 天よ」と叫んだイエス、天情に染み、天のみを抱き、自身のすべてを捧げたイエスの後に従えば、残る群れとなるのです。ある民族がこのような理念をもってゆけば、その民族のまえにすべての民族が、制覇されざるを得ないのです。

 このような観点から見るとき、韓半島に生まれた哀れな群れである我々は、今何を覚醒し、何を覚悟するのか?「南北に分けられたこの国に生きる私たち、持っているすべてのものをみな捨てました。父母、兄弟も捨て、家族も捨て、宗族も捨て、物もみな捨てましたので、このような事を気にもかけません。願わくば天よ! 世界の中で私たちがいるこの場が、イエス様が叫んだゲッセマネの園としてください。この地が世界のゲッセマネの園になるようにしてください。さらには世界のゴルゴダの頂上にしてください」と祈願する心が燃えなければなりません。このような青年男女がこの国に多く出てきたなら、この国は絶対に滅びないのです。

 今日「歴史を捨てても、この時代を捨てても、ある主義、ある宗族を捨てても、天の心情のみは、天の愛するものだけは捨てることができません」とする群れがいたなら、その群れは世界を支配するのです。このような群れが、真の天の群れなのです。

 イエス様が再び来られる時に、行かれたように来られるとしたら、その行った足跡、ゲッセマネの園におけるその悔しい心情はどこへゆくの。ゴルゴダで十字架を背負い、血の汗を流して歩んだその切ない心情はどこへ行くの。イエスそれ自体が、問題ではありません。今我々が捜し求めなければならないものは、イエスの心情です。

 心情を通して許し、心情を通して一つになり、心情を通して和合し、真の人類愛に染まる群れが希望の園で生きるのであり、心情を通して世界を見やる主人公になってこそ、この世界万物までも和平するのです。その時こそ、初めて神を私の父と呼べるのであり、六千年の間結ばれてきた億千万の怨恨の峠があったとしても、これを越えて天を抱きしめることができるのです。このような群れが、ゲッセマネの園において叫んだイエスの実体の結実であり、ゴルゴダで十字架につかれたイエスの実体の結実なのです。

 それゆえこんな存在が現れてこそ、全人類が善の園で一つの宗族として神に侍り、一つに和して生きることができるのです。この世界は受けんとする人々が生きる所ではなく、与えようとする人々が、与える為に気づかって生きる所です。今まで歴史路程において、受ける為にさまよってきたのは正にサタンです。自分を主にした善と統一を主張するのではなく、他の為に善と統一を主張する群れが生きる所が、統一教会で主張する地上天国なのです。

 神様はイスラエル民族に選民思想を与えられたのですが、その選民思想をもって誇って生きる人間が、正に選民思想を持つ人間です。ですから神様が今まで捜し求めた人間は、選民を失った天の悲しみを知り、天国を建設するための選民思想に徹底した人間です。選民思想に徹底したその心情がある所が、千万人の帰結点です。

 ですからそこに入る者は、滅びることがないのです。またこの点をおいて出てゆくときは、万事解決されない問題がありません。その心情に染みて、他の為に与えるために気づかう群れが生きる世界が、いわゆる初めに主張したみ旨の世界なのです。また、今日までの歴史過程を経て、摂理された神のみ旨が成る世界であり、今まで苦労して苦しみを受けつつ経てきた歴史路程の所望の園であることを、皆さんは知らねばなりません。


 すべての事を犠牲にしてみ旨の為に闘う人間が真の愛天者

 この地に真の国があるとしたら、その国はどんな国でしょうか。その国を、いわゆる地上天国と呼ぶのです。その国が成ってこそ、神様が本然のアダムとエバに「あなた方が完成した時に、万物を主管せよ」と祝福されたそのみ旨を成し、人間は初めてこの地の真の主人として現れることができるのです。また、その時にこそ初めて人類は、互いに真の兄弟になることができるのです。その時に初めて我々は、神の真の息子・娘になるのです。天の父に対しては真の孝子・孝女、主人に対しては忠臣であり、この宇宙万物に対しては真の主人になるのです。そのようになれば神様は我々に全権を任されるとき、外的な全権のみならず、内的な全体の心情の中心までも移し与えてくださるのです。神がすべてのことを任せて、安心することができる息子・娘になるのです。

 こんな息子・娘は歴史路程におけるどんな忠臣、烈女、孝子、孝女よりも大きな存在です。こんな人々を世界的に誇ることができる日が、これから来なければなりません。

 今日共産主義者たちは、自分たちが標榜する理念を中心として、人格者と功労者に従うようにモデルを立てているのですが、民主主義はそうではありません。

 我々はこれを越え、歴史路程において天に対し、全体の理念を立てる功労者たちを崇拝し、彼らの人格を尊敬しなければなりません。さらには彼らの足跡を死守し、そんな主義を持って地上において、天が要求する理念の世界に向かって動いてゆく人間、またそんな群れにならねばなりません。

 このような理念圏内でこの世界を一つの国として、この世界人類を一つの民族として考え、希望の主人公に侍って生きる一日、天地を代身して全被造万物を和合させ、敬礼することができるその日を望み見ていかなければなりません。その時が来るまで、すべての事を与え、犠牲を覚悟して闘ってゆく人間が、正に天が願う愛国者であり、天が願う愛天者であると言うことができるのです。



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Last updated  2021.03.11 05:48:19
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