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カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
「食口に対する本年のメッセージ」
1977年1月1日 ニューヨーカービルで 僕の僕からの出発 きょう神の日を迎えるために歴史は、様々な復帰過程をたどってきました。僕の僕の時代、僕の時代、養子の時代、実子の時代、親の時代と。そしてその後、神の日が設立されたのです。 私たちは神の日の意味を知っていますが、多くの人々は知りません。あなた方も知っているようにキリスト教は、神の養子の宗教です。堕落した人間を神の養子にまで引き上げる宗教です。ユダヤ教は、僕の宗教の立場にありました。そして宗教を持たない人々は、一番下った僕の立場にいます。ですから統一教会がきょう神の日を祝っているということは、革命的事業であり、革命的業績です。 それは私たちが、非宗教の僕の僕の時代、僕の時代、養子の時代を成就して、いま真の父母を中心とした実子の時代を迎えた、ということなのです。 原理で知っているように人類は、成長過程の第二段階である長成期で堕落しました。そしてその堕落は、エバもアダムも一人で堕落したのではなく、一緒に堕落してしまったのです。彼らは、夫婦の位置を探しながら一緒に堕落したのです。ですから逆の過程をたどる復帰過程において、堕落は夫婦の関係を通して復帰されなければなりません。 統一教会の歴史は、ある意味で全歴史の反映であります。もしキリスト教が、統一教会を最初から受けいれていたならば、復帰摂理は、養子の土台の上に立って一段階上に進み、実子と父母の時代を迎えていたはずです。しかし現実は、キリスト教の反対と迫害のために、これらの土台が崩れ先生と統一教会は、最低の位置から出発しなければなりませんでした。最低の位置、つまり人間として一番下った僕の僕の立場からこの開拓の道が出発したのでした。 先生は、僕の僕から出発して神の日まで登りつめ勝利した開拓者です。さらに先生は、ただ単に一人で戦ってこられた、というだけではないのです。後からすべての人類がついてこれるように、または同じ業績に達することができるように橋を残しながら歩んでこられたのです。 一九六〇年までの先生の険しい開拓の道は、想像を絶するものがありました。一九六〇年後は、御成婚式によってしっかりした基台が敷かれ、それによって真の子女が出現できる完全な基台が成立したのです。 二人のアダムの一体化 もし、人類始祖アダムとエバが堕落しなかったなら、本来彼らは神の目から見て、夫婦となる前に一人の個人として完成された神の真の子女となるべきだったのです。それが堕落行為によって人類は、神の子女の立場を失ってしまったのです。 救い主の使命は、失われてしまったアダムとエバの位置を完全に復帰された位置に復帰することです。イエス・キリストの時代にイエス様がアダムの立場でこられたことは、皆さんは統一原理によってよく知っています。 彼は、罪を知らない完成されたアダムとして生まれました。一方完全なアダムを支えるために、復帰されたアダムがおりました。それが洗礼ヨハネです。 洗礼ヨハネは、堕落した人間の代表として復帰されたアダムの立場にいました。彼は、堕落人間の観点から、アダムの完成を求めていました。ではイエス・キリストとはどんな方でしょう。彼は何の罪も堕落も知らないアダムの立場にいました。彼は、まったく聖別されているのです。ですから二人のアダムは、一つになること、まったく一体化することになっていました。一人は完成されたアダムに、もう一人は復帰されたアダムです。 なぜ完成されたアダムのイエス様と復帰された洗礼ヨハネの一体化が必要だったのでしょうか。この一体化によってすべての堕落人間が、イエス様の恩寵によって救われる位置に立つことができるのです。ヨハネが堕落人間の代表として、イエス様とまったく一体化することによって、ヨハネは、人類がその橋を渡れば完成できるような橋を築くことができたのでした。 父としてのイエス様 イエス様は神の血統として、神の直系の後取りとしてこられました。洗礼ヨハネと人類は、堕落した天使長の血統としてきました。洗礼ヨハネや堕落人間は、どんな努力をしたとしても養子の立場に立つことはできません。イエス様は神に属し、他の人々はサタンの親に属していました。ですから、神の養子として、神の側に復帰されなければなりません。養子にしかなれない人類は、生命の木、真のオリーブの木としてこられたイエス様に接ぎ木され真の生命を受ける、という最終段階の過程におります。この過程を通して人類は、神の直系の子女となることができるのです。 もし堕落行為がなかったなら、堕落人間もいなかったでしょう。すべての男女は神に属していることができました。堕落の血統もなかったでしょう。すべての男子と女子は神の息子娘となったでしょう。堕落のために異なる人種と血統が生まれました。 あなた方は、二千年前にイエス様が完成されたアダム、完成された父親の立場でこられたことを知らなければなりません。他の人々は、洗礼ヨハネを門徒として彼と一体化することによって、その門徒を通過し神の息子、娘として復帰される道があったのです。いいかえれば、イエス様と洗礼ヨハネが一体体化することによって長成期を勝利し、さらに進んでその時代に完成期を全うすることができたのです。 霊的宗教としてのキリスト教 長成期に堕落したために、多くのものが失われました。人類はすべてを失ったのです。「神の日」も「父母の日」などというものもありません。創造物は、すべて失われサタンの手中にあります。 聖書には、十二弟子、七十二門徒、百二十人門徒などがいたと書かれてあります。イエス様の弟子は、二千年前に長成期を越えて完成に至るはずでした。ご存知のようにイエス様お一人では、真の父母となることはできません。父母として立つ為には、二人の個人が必要です。私たちが「親」という時、当然として二人の人間のことをいっているのです。 ですからイエス様が、個人として成長し完成したならば、彼は次のレベルに進んで真の父母として立たなければなりません。彼は、はっきりと聖書の中でそういっております。 しかしイエス様が御自身を新郎として新婦を迎える準備をして、親として完成しようと次の段階に進もうとした時、十字架がきたのです。 イエス様は、親になる機会を与えられませんでした。真の親がいないのですから、本当の子女もいません。万物の復帰もできません。「父母の日」「子女の日」「万物の日」もありません。イエス様は、天国に一人で独身のまま、ある意味では天使の立場で昇天されたのです。ですからキリスト教は、霊的救いの完教であって、肉的救いはできませんでした。 洗礼ヨハネは彼自身の使命を全うしませんでした。十字架は、おもに洗礼ヨハネの失敗の故に起りました。イエス様は、霊的救いのみを成しとげることができました。そして肉的救いの可能性は、すべて失われました。 それからキリスト教の歴史は、霊的養子の宗教となりました。それ故に、ある意味でキリスト教は、ユダヤ教にさえ劣った立場にいます。少なくともユダヤ教は、肉的にも霊的にも僕の立場にいますが、キリスト教は、養子としてさえも肉的救いの方式を持たないからです。 民と領土を失った神 キリスト教は、霊的な養子のレベルまでの救いを成してきましたので、領土を持っていません。国もありません。少なくともイエス様の時代と旧約時代には、国がありました。神が、「これは私の国、私の民、私の領土」と宣言できる国と領土を持っていました。しかしイエス様の十字架以後、神がそう宣言できる国はありませんでした。本来なら、すべてを神に復帰しなければならないのです。 キリスト教が根をおろした所で何が起ったでしょうか。キリスト教は、苦難に会ってきました。殺害され苦しみ無数の殉教者を出しました。二千年間の歴史において、あらゆる苦難が降りかかってきました。しかし今日のキリスト教は、自分の立場がまったくわからずにいます。彼らは、ただイエス・キリストを信じ、ある日キリストが天に現われ、キリスト教徒は中空に引き上げられ、至福千年が始まると思っているのです。今日、世界を救い神のもとに復帰しなければならないメシヤも二千年前同じく世界を復帰するためにこられたメシヤも、二千年前同じく世界を復帰するためにこられたメシヤも、肉体を持った人として私たちの中に現われなければなりません。これは原理的に明らかです。 二千年前にこられたイエス様と末の世にきたるメシヤが、同一人物でありえるはずがない、ということは皆さんご承知の通りです。それは、エデンの園にいたアダムとそれから四千年後にこられたイエス・キリストとが同一人物でありえないのと同じことです。アダムの失敗を復帰するために、別の人であるイエス様がアダムの位置できました。同じように再臨のメシヤも、別の人が第三のアダムとしてこられるのです。 第三アダムの資格 では第三アダムの資格はなんでしょうか。まず第一に、彼はエデンの園のアダムの失敗を復帰することができなければなりません。すなわち第一のアダムの失敗は、第三アダムによって復帰されるのです。また二千年前アダムとしてこられたイエス様の使命を完遂完成させなければなりません。 またその第三のアダムは、どこからくるのでしょうか。彼は、霊界の王座にきちんと立っており、人々はその人の話を聞くのでしょうか。彼は、そんな風に権威ぶってふるまうべきなのでしょうか。彼は、アダムが罪を犯した所に降りてこなければなりません。復帰の業がなされる所にこなければならないのです。 メシヤは決して、雲に乗って栄光と力とを持って空中に現われるのではありません。またいくらかの人々を選び、空中で千年王国を出発するのでもありません。皆さんは、再臨の主がそのような超自然的な方法では現われない、ということを知っています。イエス・キリストは、そのような超自然的な方法では再臨しません。なぜなら神のみ旨は、地上にあるからです。 地上における神のみ旨は、成就されておりません。二千年前にイエス様が果そうとした使命は、成し遂られませんでした。イエス様の使命は、地上にみ旨を成し遂げることです。メシヤの使命は、現実的なものですので彼は人間としてこなければならないのです。 彼は、一番みじめな国にきて、人間の一番みじめな状態から出発しなければなりません。僕の僕から僕の立場、現実的にまとめあげて一歩一歩天国を建設していくのです。 神が立てている宗教圏 神は、メシヤ再臨のための滑走路として、今日のキリスト教を形成しました。もしキリスト教が、再臨の主を受けいれるとするならば、一体何が起るでしょうか。霊的業績が、肉的業績によって裏打ちされるのです。 メシヤは、なんのためにこられるのでしょうか。けっしてそうではありません。この世界には、あらゆる宗教があります。すべての宗教は、神が立てているのです。それは、メシヤ再臨のその一日を準備しているのです。メシヤを受け入れ、メシヤに会うことがキリスト教とすべての宗教の目標です。 堕落人間は、いくら天国へ行きたいと願っても、最後の一ペニーでも負債を神に帰さなければ、行く道がありません。 無になれ 私たち統一教会は、時々トラブルのないよう暮そうと思うことがあります。静かにおとなしく歩もうとしている人もいます。しかしそれは役に立ちません。通常に歩むならば、勝利していない重要な所を残すことになります。そしてサタンは、いつもそこに巣を作っているのです。 私たちの体には、たくさんのホックがついていて、サタンはいろいろな方法でそれをひっかけようとしています。ですから私たちの行く道は、苦しくとも神経を細かく使って行く道です。 しかしあなた方は「いやです。そんな苦労してまで行きたくありません。」というでしょう。しかしどんなに時間がかかっても、その極地まで行かなければ、あなた方は完成しないのです。もし神の方法に近道があるとするならば、あなた方が「先生、もっといい方法があります。」といいにくるのを待たずとも、ずっと以前に見つけていることでしょう。 しかしそのような便利な近道は、どこにもありません。神が「無になれ。」とおっしゃるのは、どこかの隅になにもしないで静かにしている、という意味ではありません。完全に無になれ、ということです。 たとえばある兄弟が、大切な人と会わなければならないのに、ぼろぼろのみすぼらしい作業服しかないとします。さてどうすればよいでしょうか。あなたは、切羽詰った状態にいます。しかし神のために、その人に伝道し獲得しなければなりません。 センターに素適なジャケットがありました。それで許可も受けず、それを着て外に出ました。神のために自分を立派に見せなければならない、とばかり思っているので、潜在的にも自分自身のことは、浮かんできません。自分の使命だけを、そしていかにしてその人物を獲得できるかだけを考えているのです。 このような行動は、神の目から見るならば罪ではありません。その兄弟の心の持ち方は、素晴らしいのです。あとでジャケットの持ち主が、誰かが自分のジャケットを着て出て行かれたことを知りました。しかし彼が神の人であれば「素晴しい、君が必要な時は、いつでもジャケットを着て下さい。これは神のジャケットです。神は、善のためにそれを使うようにといっています。」というでしょう。もし彼がそういったならば、彼は素晴らしい兄弟です。 ですから大切なことは、あなたがどう考えるかであり、心の状態です。実際に役に立つのは、牧師とかいう称号ではありません。誰でもメシヤに従って生きなければなりません。もし「メシヤよ、少しお待ち下さい。私は、病院に世話をしなければならない赤ん坊がいます。」というならば、それは役に立ちません。 先生の一番嫌いなことの一つは、それは古いメンバーたちがきて、「この子は、私の息子です。あなたの祝福に加えて結婚させて下さい。」ということです。これは、神の方法ではありません。彼らは、自分の息子、娘のことだけを考えています。神のみ旨のために汗を流し血を流している他の人たちのことを考えなさい。祝福に価するのは、彼らです。「彼らを祝福してください。」と願うなら神は、喜こんで歓迎するでしょう。 メシヤは、栄光の主として輝く天の雲に乗っておいでになるのではありません。そのような華々しいお姿でいらっしゃるのではありません。彼は、人としてきます。人々が彼をメシヤと気がつかなくとも、誠意を持って受け入れられなくとも、今日のキリスト教の土台がありばよいのです。 メシヤは、人としてきます。ですからアメリカ人としてくるか、ドイツとしてくるかわかりません。また哲学博士としてか、労働者としてくるか、盲目か跛としてくるかわかりません。人々は、まったく見当がつかないのです。 神は全能です。しかし魔術の神ではありません。神は原理の神であり、論理の神です。再臨主がこられた時、キリスト教徒はメシヤを最初に迎える人々であるべきです。メシヤを迎え入れた後、彼らはどこに行くのでしょうか。栄光とともに天に昇るのではありません。 メシヤの仕事 彼らは、地上で仕事を始めなければなりません。彼らは、家を掃除するのです。罪で汚された地上を、アジャックス(アメリカの洗済)のように働かなければなりません。アダムの罪を洗い流し、イエス様の使命を引き継ぎ、地上に天国を実現しなければなりません。これがキリスト教徒の使命です。ですからメシヤが再臨した時、すべての人は、結婚前のアダムとエバの位置に帰らなければなりません。皆、最初から人生をやりなおさなければなりません。実際、メシヤがこられて親が定まるまでは、私たちは親のいない孤児のようなものです。 ですから結婚した人も、結婚前のアダムとエバの位置に帰らなければなりません。聖書には乳飲み子を持つ女は不幸である、とあります。 では誰が最初に結婚すべきでしょうか。それは、親が先に結婚すべきです。親としてのメシヤが先に結婚し、そのあと子供としての人々が聖なる結婚をできるのです。 真の人間革命 「生命を失なおうとする者は、それを見い出すであろう。」というのは聖書で教えていることです。神のために死のうと決意した者は、残ります。自分の生命を救おうとする者は、破滅するでしょう。もしメシヤが栄光のうちにこられるのでしたら、このような原則は成り立ちません。しかし実際に、このマタイ伝のイエス様の教えは、もっとも賢明な教えです。なぜでしょうか、考えてみて下さい。 私たちは、サタンの血統から出てきました。新しい生命として新生するためには、古い自分を殺さなければなりません。そのためには、真の人間革命が必要です。あなた方も同じです。その過程を通らなければなりません。ですからあなた方が、自分自身のことを思うならば、まだ古い自分が生きていることになります。 あなた方は、まったく自分を無にし、自分を除去しなければなりません。キリスト教の単純な真理が、統一教会の真理です。 メシヤのために生命を失なおうとする者はそれを見い出すであろう。彼は、生命を見い出すためにそれを失いつつあるのです。だからといって、台所に行って首を切れ、というのではありません。生命さえも献げる覚悟をしている、ということです。 自分を殺せとか自分を除去せよというのは、首を切ってしまえ、というのではありません。あなたの中の罪を殺せということです。あなたの中の貪欲を殺せ、ということです。 あなた方は、どのようにして自分を除去しますか。何をとり除きますか。あなた方は、野心を持っていますね。皆、野心と貪欲を持っています。 「私は、あれを自分のものにしたい。」これは、サタンの鎖につながれています。ですからそれを引きちぎらなければなりません。エデンの園での間違った貪欲が、堕落を引き起しました。そうした領域から、自分を完全に隔離しなければなりません。 善に見えるもの、目で見て美しいものは、すべて神様のものであるということを生活の中で徹底しなければなりません。それは、私の物でなく神のものです。 最初の貪欲は、物質に対する貪欲であり、二番目は、愛に対する貪欲です。堕落とは、天使長とアダムとエバの間に起った不義の愛です。統一原理によれば、本当はすべてのものが神に属し、神がすべてのものの所有者です。すべてのものを神に帰し、神からまた、それを分けて与えてもらう生活をしましょう。 すべては、神からきます。愛は、神の陣地であり、その所有権は、神にあります。エデンの園で彼らは、神を除け者にして愛を自分たちのものにしなかったのです。これが堕落です。 第二に私たちは、神の人生を生きなければなりません。私の生命は、神のもとに生まれ、神から生まれなければなりません。あなた方も、また全人類も、もともと神のもとから生まれましたか。人間の魂は、神から生まれましたか、何から生まれましたか。そうです。私たちは、正直なところサタンから生まれました、というのが真実なのです。私たちは、サタンの血統から生まれました。 神の息子、娘として神の世界に復帰する三つの大きい法則は、エデンの園で行われた罪と不正を元返すことです。私たちの所有しているものを、すべて神の所有に返さなければなりません。あなたが自分のものとしたい愛を犠牲にしなさい。それは、あなたのものではありません。神のものです。愛するものをすべて神に返しなさい。その愛そのものを神に返しなさい。三番目に私の生命は、サタンから生まれましたから、それを取り除かなければなりません。 新しい生命の出発 私たちは、これをすべて根絶して、新しい生命を始めなければなりません。神に返さなければなりません。「神よ、どうぞ私の生命を始めて下さい。」神はどうなさるでしょうか。神は「わかった。だけど私は必要ありません。あなたは、いやな臭いがします。」といわれるでしょうか。神は、そういえないのです。神は、子供を抱きしめざるをえません。なぜなら原則的に、万物も人間も神によって創造され、しかも人間は、神の子女として創造されたからです。 神は、人間の堕落が完成期に起ったのではなく、未熟期の未完成期に起ったことを知っています。ですから神は、復帰が可能であり、ほこりを落すことができると思っています。それゆえにまた、人類は、復帰され完成することを期待できるのです。希望を持つことができるのです。 本当にあなたの所有物を、あなたの生命を、あなた自身を捨ることができるでしょうか。神のために自分を失なおうとする者は、神のものによって取り替えられるでしょう。 神は、あなたに神の物を与え、あなたと愛を共有し、あなたに新しい生命を与えるでしょう。これは、あなたにとって非常にプラスになることです。これに反対する人は、ちょうど古い汗臭いジャケットと新しい絹のタキシードとをとり代えるのを、いやがっている人と同じです。 私たちが、新しい生命ととり代えるというのは、このたとえと同じです。賢い人は、真理を知った時、どうするでしょうか。「いやです。私に触れないで下さい。私は、この汗臭いジャケットが必要なんです。」というでしょうか。そういう人はいないと思います。 賢い人とは、すべてを神に献げて神のもとに立ち帰る人のことです。実際、神のもとに裸で帰るのがいいのです。それは素晴らしいことです。神は、あなたを祝福して、必要なものをすべて与えて下さいます。私たちは、神に対して不平をいってはいけません。そうすれば神は、私たちを祝福して必要なものを、豊かに与えて下さるでしょう。 絶望の世界 この世の中では、どんなにお金持ちであっても、その富を保持できない、というのが通例です。遺産税があります。どんなに一生懸命働いても、あちこちの銀行に貯蓄しても、その人が死ねば、そのお金は彼の子供や彼の家族にいかず、政府のものになります。 この世では、愛がばらばらになっています。愛情については、大きな社会問題となっています。今日では人間の愛情問題は、動物の本能のようになっています。気高い、心情の深い昔のような美しい愛情は、めったに見られません。彼らは、出会い、契約によって別れます。また出会い別れ、と永遠性のない愛情関係をつづけています。 誰がこれをしているのでしょうか。神がこれをしているのでしょうか。ちがいます。神によって新しい人間関係をつくるために、そのような過程が必要なのです。 この世の中では、自分の生命に対する希望を失っています。多くの人が自殺し、なぜ生きなければならないんだろうと考え、生きているもっともな理由を探しています。あなた方の中に、人生について悩み、死のことを思った人もいると思います。 あなた方は、かろうじてそれから逃れました。統一原理によって神のみ旨を知り、人生の目的を知りました。それでもまだ、死にたい人がいますか。もういませんね。 今日人類は、すべてにおいてゆるんでしまっています。神を知らない世界には、良い現象がひとつもありません。なぜでしょう。そこには神の愛と永遠性と真実性がないからです。ただ何もわからず走っているだけです。 しかしそれは、ある意味では私たちもやらなければなりません。私たちは、無になって神に向って走らなければなりません。何年も以前に先生は、アメリカでは今に人々が裸になって町を走り出す。そしてそれは、世の終りの印だ、と予言したことがあります。私たちは、真理にもとづいて神に向って走らなければなりません。 この世の中では、今日、徹底的な露出がなされ、極端なことが起っています。私たちも天の側として、すべてを神に帰し、もっとも実際的なことをなしているのです。 やがて多くの人々が、真の価値を求めて統一教会の門をたたきにくる時がきます。その時には私たちは、ただ準備して待っていればいいのです。すべてのものを神に帰し、生命しか持っていなかったら、その生命を神にお献げしましょう。これが統一教会の運動です。 私たちは、それらをただ神に返すだけではありません。もっと劇的なものにします。私たちは、自分が今立っている所に帰ってくるのではありません。私たちは、人類のみじめなどん底に帰っていくのです。神も一緒にそこにできます。ですから劇的になるのです。そこで勝利すれば勝利されない所は、どこにもなくなります。 たとえサタンの世界に下りていっても、サタンは責める余地がありません。なぜなら私たちは、自分の我を捨て、人間の一番みじめなどん底に下りていくからです。 私たちは、毎日刺激的な歩みをしております。ある時はお金持の所へ、ある時は乞食の所へいきます。朝早くから夜遅くまで、神のみ旨のために走って働いています。しかし私たちは、一セントであっても自分のポケットに入れてはいけません。これは神の財産だからです。私たちには、微塵も我欲を持たないからです。私たちは、サタンの告発から解放されていることが、どんなに自由であるか、どんな重要なことか知っております。 あなた方が、このようなコンテストをしている間にも、あなた方は、この世の中から見放されつつあります。あなた方の両親は、「お前は気狂になったのですか。私は、お前を食べさせ着せてあげることができるのに。」というでしょう。恋人は、「ジョンはいい人だと思ったし、賢い人と思っていたのに、彼はバカだった。」というでしょう。私たちは、すべての人々を失ないつつあります。世は、あなた方を完全に見放しつつあります。 しかし私たちは、もう一歩行かなければなりません。「神よ、この世について思い煩らわないで下さい。私の両親についても、私の恋人についても。私の人生は、あなたのものです。いつでも準備はできています。ただ『私は、お前が必要だ。』という外電を打って下さい。」というならば、その人はジャンボ・ジェット機のように、サタンが告発する領域を越えてしまいます。サタンの力は、効力を発揮しません。 サタンとの訣別 あなた方は、何故こういうことをしているのですか。それはあなた方は、このサタンの影響力がいやになり、飽き飽きしているからです。 私たちは、この世の中から自分を隔離して、まったく別の歩みをしています。私たちの生活は、世の中でいえば乞食とかわりありません。水準の高い大学の文学修士号か哲学博士号を持っていても、それを誇ることはできません。「私は、哲学博士です。だからこうして下さい。」といっても通じません。 ハーバード大学のことをひとつも口にしないハーバード卒業生というのは、素晴らしいではありませんか。これは神の目から見て、とても美しいことです。神はそれを見て、目に涙をためておられます。私たち若者は、このような人生を通らなければなりません。 今朝あなた方は、完全に答がわかりました。毎日々々、朝から夜まで変りなく働き続けているのか、はっきりわかりました。そは、サタンの手かせ足かせから自由になろうと一生懸命働くのです。 皆さんは、サタンの束縛から逃れるため、何でもすると決意しました。これも貪欲であり、野心です。しかしこの野心は、私たちのものではありません。神の野心です。私たちは、神をもっともっと愛るために、その野心を持つのです。 私たちは、神をもっともっと劇的に愛したいし、私の生命を献げたい。本当のところ、愛と生命に対する欲望は、悪いものではありません。しかしそれがサタンのものになると、悪いものになります。しかしもし、あなたが神の側にいて、それが神の生命、神の愛であればあなたは、神からそれをもっと奪おうと貪欲になって、野心的になってもかまいません。 非難に耐える 外部の人々は、真実の世界については何も知りませんし、摂理も明らかにされていません。彼らは、私たちも異端であり、悪魔であるなどといっています。しかしそのように非難されても、いつも明記に価することが起っています。私たちの運動は、常に前進し盛んになっている、ということです。彼らは、自分たちが正統だ、といっていますが、その一方彼らは混乱し、いつも、神がだんだん小さくなるといっています。 人々は、沢私たちを批難し、悪魔とかいって呪います。しかし私たちは、彼らに憐みを持たねばなりません。なぜなら彼らは、私たちを非難することによって、自分たちの祝福を失い、その報いを受けなければなりません。非難をすればする程、その報いを受ける、というのは原理原則なのです。 実際、私たちを呪うことによって、彼らはその報いを受けているのです。私たちは、少数でしかも迫害されています。しかし私たちは、神学校や修道士、修道女の宿舎を手に入れました。彼らは、次から次へと神の館を手放しています。 歴史上における真の宗教は、いつも当時の宗教によって迫害されるのが通例です。そしてやがて栄えるようになります。これは例外のない法則です。私たちが、他の宗教によって迫害されているという事実は、私たちが真の宗教として前進していることの証拠ではないでしょうか。 うれしい神の日を祈ろう 三年前、先生がアメリカで初めて十字軍を始めた時、マスコミは全部冷笑的に記事を書きました。彼らは、今もそうしています。しかしそれから三年半、どうなったでしょうか。神学校とかニューヨーカービルとか、その他様々な建物が私たちのものになりました。一九六五年に、初めてアメリカにきた時、宿泊するセンターもありませんでした。しかし今は、私たちはニューヨーカー・ホテルにいます。今は、人員を部屋の数にまにあわせるのに一生懸命です。 今後、私たちは全国に神のための立派な館をつくらなければなりません。それは、どの建物よりも立派でなければならないのです。なぜなら二百年前、アメリカの建国者たちは、まず立派な神の館をつくったからです。そのためには、どんな努力もしましょう。 おもしろいことに、ニューヨークには二つの世界貿易センタービルとエンパイヤステートビルがあります。これは、アダム、エバ、天使長の象徴ではないでしょうか。本来これは、神のために動かなくてはなりません。国の指導者たちも、神の真理によって立たなくてはなりません。 この部屋には、「一九七七年、うれしい神の日おめでとう」という小さな看板がありますが、私たちは、まだ「うれしい神の日」を祝っているとはいえません。この世は、まだサタンの手中にあります。人々は、今だに苦しみもがいています。 もちろん私たちは、神の日を宣言しました。これは確かです。しかし私たちの目標は、「うれしい神の日」を祝うことです。それは、骨の折れる難しい仕事です。苦労の多い仕事です。この戦いに勝利する人間は、レバレンド・ムーンのように、根気強く確信に満ちて、どんな小さなことにでも熱心にまれる人でなければ、目標に到達することができないのです。観光を楽しむ通行人のような人は、目的地に行けません。 皆さんはどうですか。目標を達する確信がありますか。もし神が、裸になってニューヨークの街を行進しなさい、といったらどうですか。先生は、宣伝になるから行進した方がよい、と思います。見物しているから始めて下さい。 実際に私たちは、多くの衣服は必要ありません。人に不快を感じさせなければよいのです。 どこにでも真理を伝えよう もしメシヤが再臨されたら、彼は、すぐには彼の仕事をするのではありません。まず彼は、アダムの位置に下りていって、アダムの失敗の償いをします。償ったら、それを神の所へ行って、それでいいかどうかを神に聞きます。それでアダムの罪は、償われます。 それから彼は、イエス様の位置に行ってイエス様の位置をやり直します。そして神に許可を受けます。すべてが償われた時、初めて彼自身の使命を始めます。 私たちは、ユダヤ教のレベル、すなわち旧約時代のみ旨の基台をつくらなければなりません。ユダヤ教の使命を果ちなければなりません。それからキリスト教の使命も果さなければなりません。私たちは、そのために三十年間かかりました。 そして世界的基台を打ち立てるため、アメリカにきて一九七六年に、ヤンキー大会とワシントン大会の勝利を収めました。この霊的世界的勝利を土台として、地上天国を実現しなければならないのです。一九七七年元旦、新しい出発です。私たちは打ち立てられた基台を拡張していけばいいのです。 人間は神の真理、神のみ意によって感動するようになっています。種の要る所には、どこへでも行って、それを蒔かなければなりません。それが感謝されなくても、必要だと思われようとそうであるまいと、それをなさなければなりません。 今日私たちは、キリスト教の霊的基台の上に、肉的要素を加えています。養子の時代を通過しているのです。 今後の自由世界の命運は、私たち統一勇士の双肩にかかっています。レバレンド・ムーンは、奇妙なことをいう、と思われるでしょう。私たちは、自分の素手以外なにも持っていません。それなのに世界の命運について語っています。まったくナンセンスです。しかし必ずそうなるのです。なぜならば私たちは、神をつかんでいるからです。さらにすべての霊界が、団結して私たちを援助しているからです。 先生は、虚勢をはっているのでもなく、真実でないことを語ったりしているのではありません。これは公的な集会です。一つ一つの言葉が、天にも地にも正確に記録されていますから、真理を話さなければなりません。この宣言は、ここにいる皆さんだけに語っているのではなく、全世界の食口に伝えられ、知らなければならないのです。 さあ、私たちは、きょうから次から次へと人々に会いましょう。私たちは、団結して反対勢力や神を否定する考え方に勝利しましょう。そしてそこ勝利を、この一年間保ち続けるというのが、きょうの神の日における私たちの決意です。 二年間で神の働ける基台を 私たちは、神の弾丸になりましょう。霊的弾丸、心情的弾丸となっていきましょう。弾丸の性質は、元に戻ることもないし、春の道を散歩するようなこともありません。ひたすら目標に向って自らを爆発させ、標的を打ち砕くのです。聖書には、一粒の麦のたとえがあります。それと同じです。私の手が、体がばらばらになった時、多くの基台がたてられるのです。 今朝のメッセージの題目は「地上天国実現の理想家庭」でした。私たちは、理想の家庭、理想の世界、理想の天国を建設する群です。神の変らない願いは、必ず果され、神の悲しみの御心情は、解放されなければなりません。 実にイエス様は、この目的のためにこられたのです。そしてこの使命を果たせずに、苦い十字架を味あわれたのです。今や、統一教会以外に希望はありません。あなた方は、神の唯一の希望です。私たちは、貧弱な若者たちです。しかし私たちは、神が生きた神であることを知っています。神は生きた方ですから、私たちに力と知恵を与えてくれます。私たちを無敵にしてくれます。 きょうから一九七八年の十二月三十一日までに、七百三十日あります。秒読みが開始されました。これからの二年間、神が働ける基台をつくらなければ、自由世界の時代はなくなり、アメリカは衰え、人類に希望はなくなります。 ですから七百三十日間、ここにいる私たちは皆、一つになって弾丸となり、神のチャンピオンにならなければなりません。私たちは、本当に神から与えられた特別の使命を果しましょう。 きょうから私たちは、自らを神に献身して神のチャンピオンになり、二年間の開拓者となることを、もっとも厳粛に誓いましょう。 私たちは、闇の中にいるのではありません。真理を知り、目的を知り、作戦を知っています。あと為すべきことは、神と人類のために、一オンスのエネルギーも残さずに、自らのエネルギーを献げきることです。 一九七六年、一九七七年、一九七八年、私たちは、天宙的蕩減を払い、天宙的摂理をなしていきましょう。人類の何千年の積もりに積った負債を払っています。私たちは、これをこの三年の中に払ってしまわなければなりません。これが成されれば、神が私たちとともに住み、天国は生きた現実となるでしょう。 きょう、どんな困難が起ろうと、艱難がふりかかろうと、どんな障害があろうと、私たちは、それで身動きができなくなるのではなく、それを打ち破り、最後の勝利を獲ち取るまで前進することを、全能なる神に両手を上げて、一緒に誓い、お祈りしましょう。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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