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カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
「真なる家庭と私」 1995年5月30日 五月三十日夜、首都ブエノスアイレスのアール・パレス・ホテルでVIPの晩餐会が開かれました。この時に語られた講演文です。 きょうの夕べ、アルゼンチンに来て、貴賓の皆さんとお会いし、このような歓迎のパーティーをもてたことに、心から感謝を申し上げます。 皆さんは、たくさんのうわさを聞いてご存じでしょうが、ここに立っている者が、まさしくレバレンド・ムーンという人物です。世界で多くの問題を起こし、多くのことがらを推進して今日まで進んできたのは、天に侍ってきた歴史的事実があったからだということにほかなりません。 きょうしばらくの間、お会いして、喜ばしい環境の中でお話ししようと思う内容は「真なる家庭と私」です。世界で問題になるのは家庭ですが、真なる家庭とはどのような家庭かを中心としてお話ししようと思います。 今、私たちが生きている世界は善なる世界か、悪なる世界かと尋ねるなら、だれでもみな悪なる世界だと答えることでしょう。なぜ、悪なる世界なのでしょうか? 全世界の歴史を見ても、アルゼンチンの歴史を見ても、またどの国の歴史を見ても、戦争史で連結されているという事実を私たちは知っています。 戦争を通して戦うならば、一つの平面的な基準で同じ立場にある人々が戦うようになるなら、これらはより衰退するようになっています。世界が悪いなら、アルゼンチンの国も悪いという話であり、アルゼンチンの人も、私たち自身も悪いということです。 私たち自身をよくみれば、私たちの心と体も闘っている事実を否定することができません。それなら、この闘いの起源がいったいどこにあるのかということが問題です。私自身が闘い平和の基地をもてないときは、いくら家庭が平和で、国と世界が平和だとしても、幸福ではあり得ないのです。 皆さんがご存じのように、第一次、第二次世界大戦も終戦となりました。戦争は終戦や休戦にいくらでもすることができますが、私たちの心と体を中心としたこの闘いは、昔から歴史を経て、今の現世ももちろんですが、未来まで継続する闘いであることを私たちは想像だにしていません。 このような問題を中心として考えるとき、神様がおられるなら、私たちの心と体の闘いを、なぜこのように歴史性を帯びて継続させたのかということが大きな問題になるのです。人間が罪を犯したというとき、罪を犯した人がそのことを蕩減しなければならないのです。罪を犯したこと自体に神様が責任を負い、これに干渉することはできないのです。 では、心と体が闘う根源地はどこでしょうか? 私たちの生命は父母から受け継ぎ、また父母をさかのぼっていけば、第一代の私たち人類の先祖の立場までさかのぼるようになります。すなわち、第一代の先祖であるアダムとエバの夫婦の愛に、問題があったためにこのようになったとみるのです。生命の起源は父母の愛で始まるのです。 では、私たちの生命が出発する前からこのような闘いが始まったとみるなら、父母が愛し合った立場が問題になったという事実を私たちは考えざるを得ません。アダムとエバの愛が喜びの愛にならず、相いれない愛の起源によって生命を受け継いだ私たち人間自体の紛争は、そこから始まったと言わざるを得ません。 聖書はアダムとエバが堕落することによって、エデンの園から追い出されたといっています。追い出されて人類の先祖が子女を繁殖したのは事実です。追い出したアダムとエバに、神様が結婚式をしてくれるはずは絶対にありません。 だれの下で結婚式をしたかと考えると、堕落することによってサタンの下で結婚式をしたということを、私たちは認めざるを得ません。堕落はサタンによってエバが誘惑され、誘惑されたエバがアダムを誘惑したのです。 ですから、私たちの先祖であるアダムとエバが愛を中心として夫婦関係を結ぶとき、喜びの関係ではなく、相いれない関係により私たち人類の始祖が始まることによって、その関係に起因する私たち人間も、心と体の闘争の起源を連結せざるを得ないという事実は、何よりも理論的なのです。 堕落は淫乱によって始まったのです。このような願わない愛の関係によってサタンと一つとなって、善なる先祖になれず悪なる先祖になって、悪なる愛と悪なる生命と悪なる血統の根をもつようになったのです。このようなことが事実であれば、私たちのすべての人類の堕落した後孫たちが、家庭を超えて氏族、国家、世界まで発展した今日、五十億人類はサタンの後孫であり、悪なる父母の血統を受け継いだということを否定できないのです。 私たちの体の中に、神様が一番嫌うサタンの血が蠢動しているという事実を、どこのだれも考えることができませんでした。これが問題です。では、この根をどのように清算するのでしょうか? サタンが愛の根をどこに下ろしたかといえば体、すなわち肉身に根を下ろしたのです。 もし堕落しなかったなら、心と体が一つになるのは自然の道理です。堕落することによって天に対する良心のプラスとこれに反対する体のプラスが相いれずにいるために、ここから闘争の歴史が始まったという事実を私たちははっきり認識しなければなりません。 神様は、こうして善悪を分立する歴史をとおして、転換せざるを得ないのです。神様は公的なので全体のために生きる道を取りながら、愛と平和の目的に向かいます。その反面、サタンは私的立場を取って全面的に善の側を破壊しようとする立場を取り、憎悪と戦争で永遠に人類を天の側に行けないよう、天と地上世界を滅ぼそうとしているのです。 神様は、サタンの側に回った人類を打つことができないので、人類を取り戻すためには天の側が打たれて奪ってくる作戦を取り、サタンは打って奪われる作戦をせざるを得ません。サタンは、私的中心に憎悪と闘争で、天を滅ぼそうと歴史を通じてなしてきました。天は、反対に公的な立場で、愛と平和で再創造してきたのです。 末世になれば、サタンが人類を支配してきた立場を天に奪われるようになるので、神がいないという無神論を提示して、人本主義と物本主義、共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタン側の左翼の闘争を、世界的に展開したのです。天の側の勝利によって、第二次大戦以後にキリスト教文化圏の勝利と、平和の世界に転換する大変換時代を迎えるようになるのです。 今は個人主義の王国時代です。真の愛を中心とした、天の家庭を完全に破壊するフリーセックス時代、父母否定時代であり、夫婦否定時代、子女否定時代です。理想家庭を取り戻す天の側を完全に破壊するホモ、レスビアンの地上地獄時代を、天国に転換するのが再臨のメシヤの使命なのです。そうして、メシヤは真の父母として、心と体の統一、夫婦の統一、子女の統一を願うのです。 全世界的に今、問題は公私にかかわらず、物質が先か精神が先か、無神論か有神論か、観念か実在か、進化論か創造論かということが問題です。これをはっきりさせなければなりません。 例を挙げてみましょう。動物世界を見れば、生まれるとき、目がまず生じるようになります。その目自体は物質それ自体です。その目が生まれる前に太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか?その目の物質自体は知りませんでしたが、太陽を見ることができるように生まれたということは、その物質自体よりも先に、太陽があることを知った立場で生まれたということです。 その目自体が空気があるということを、その目自体の物質は知りませんでしたが、すでに空気の中にはほこりが飛ぶことを知って、目をカバーする睫が準備されているということを知ることができます。また、目自体は知りませんでしたが、すでに蒸発する輻射熱があることを知り、目に涙腺をおいて防備させたのは、生まれる前にそのようなことがあることを知って生まれたのです。 結論づければ、思惟と存在、精神と物体、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論が論争する問題の解決をみるようになるのです。ですから、はっきり神によって創造されたことを否定することはできません。そうして、本然の神様の創造理想世界に帰って、神様が願う家庭と私と世界をはっきり知らなければならないのです。 私たちの心と体を見るとき、体は地獄の基地になっており、良心は天国の基地になっています。この二つの世界の分岐点をもっている人間であることを知りませんでした。 このような立場に立っている私たち自身を見るときに、体が心を引っ張り回すのです。体が心を自由自在に歴史を通じて引っ張り回したのです。 もし、良心が強ければ、自然と天に帰っていくので、世界はすでに天の前に立つことができたはずです。また、肉身が良心を引っ張り回すというのは、堕落するときにサタンと関係を結んだ偽りの愛の力が、堕落するときの良心の力より強かったということです。 ですから、神様はこのようなことをよく知っているために、堕落した人類を放っておくことができず、この体が良心を引っ張り回す力を弱める作戦をせざるを得ないのです。 このように、歴史的に天が働くその救援的な体制を立てたのが宗教です。全世界の文化圏が異なる背景に従って、さまざまな宗教を立てて、体が心を引っ張り回すのをどのようにして弱めるのかというのが宗教の目的だということを、今まで宗教を信じる信仰者たちは知らずにいたのです。 堕落がなかったなら、宗教は必要ないのです。誤ったので、これを修正するために宗教が必要だったのです。ですから、神様は宗教を通して何をしようというのでしょうか? 心を引っ張り回すこの体を弱めようとするのです。 皆さんは、宗教を信じることによって救われ、キリスト教を信じることによって天国に行き、仏教を信じることによって極楽に行くと思っています。しかし、天国は神様の真の愛を中心として、一つになった子女が入るようになっています。 天国に入ることのできるアダムとエバの家庭は神様の血族であり、神様の愛を中心とした家庭であらざるを得ないのです。そのような家庭が入る所が天国だということを、今までだれも知りませんでした。 ですから、良心の力を強化するためにこの体を弱めなければならないのです。良心を解放させ、良心が体を自由自在に引っ張り、堕落しなかった本然の神様の愛の懐に帰らなければならないのです。 では、宗教がすべき内容が何かといえば、体が一番嫌うことを提示することです。体が嫌うのは断食をせよ!そして次には奉仕をせよ! そして犠牲になれ! それだけではなく、後には祭物になれ! 祭物は血を流すようになっています。生命を捧げられなければならないという話です。 ですから、聖書で、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」と逆説的な論理を教えたのも、肉身の欲望のまま生きれば地獄に行くのであり、肉身の欲望を抑制して良心に従っていけば天国に行くという話です。この体を完全に屈服させ、良心が絶対的な主体の立場に立つようになれば、私たちの良心は無限な欲望と無限な希望をもつようになっているのです。 今までの歴史のなかで数多くの宗教があり、数多くの宗教指導者たちがいましたが、彼らは体を完全に占領し、無の状態に立って、良心をもって本然的基準で天と相対できる立場の解放された人間になれませんでした。 私たち堕落した人間は、偽りの愛の根を中心として、野生のオリブ(渋柿)になってしまい、真のオリブ(甘柿)になれませんでした。神様の真の愛を中心として根を張るべき人間が、悪魔の愛を中心として根を張ったために、野生のオリブになったのです。この事実に対してどのように清算すべきでしょうか?きょう現在、生きている私たち人類の解決すべき重大な、宿命的な課題として残っているのです。 皆さん自身を中心としてみるとき、皆さんの良心は皆さんのあらゆることで知らないことがありません。良心は私において、父母よりも近い立場に存在することで、永遠なる愛をもって、永遠に神様の懐に抱かれることを願っているのです。 世の中の父母たちは、結婚すれば別れることがありますが、良心は私を中心として、私が生まれる前から私とともに存在し、私を愛しながら永遠に神様の子女として解放させようとするのがその使命だったのです。 良心の世界には先生が必要ありません。ある国の文部省の大臣が、良心教育をしようと宣布をしたという話を聞いたことがありますか? 良心が本然の道を行ったなら、私が一生の間、行く道をはっきり知って、間違いなく神様の懐に帰ることができるように、みな教え導いたのです。 皆さんが良心を中心としてみるときに、良心がすべての私の一生のことを知っているのと同様に、霊界に行けば霊界にコンピューターがあるので、地上でなされたすべての事実がはっきりと記録されるのです。私の良心というものが、永遠なる神様の真なる息子・娘になるために、そのような傷のない子女となるようにするのが良心の使命だということを、今まで知りませんでした。 霊界に行かない自信のある人がいますか? 必ずみな行くのです。皆さんが霊界に入れば、すぐに名前が分かるようになって、皆さんの一生だけでなく、数千代の先祖たちも一瞬間に分かるのです。その世界は時空を超越した世界なので、良心に反する内容を残してはならないのです。それゆえ、良心は先生よりも優っているという事実を知らなければなりません。 ここには著名なかたがたと、教授たちが来ていると思いますが、皆さんが良心以上のことを教えてあげる内容を持てないでいるのです。皆さんの良心は、船におけるコンパスと同様の役割をしているのです。 皆さんの中に、年を取ったかたがたと若いかたがたがおられますが、結婚するときに相手が自分より劣ることを願う人がいましたか、いませんでしたか? いません。また、愛する相手が自分より十倍、百倍、可能なら千倍、万倍、億万倍もっと優ることを願うのです。 ですから、良心の欲望は最高の愛を求め、絶対的中心者を占領しようとするのです。私たちの先祖たちも私たちの後孫たちも、同じです。このような質問を神様にしても、同じ答えをするのです。皆さん、欲心と欲望をみな叶えるという見込みはないでしょう? ここのアルゼンチンの上院議員が大統領になりたいと思い、南米全体、ひいては世界の一番高い立場を占有したいのが良心の欲望なのです。歴史以来、今まですべての人々の考えは、良心の欲望は達成できない、不可能だ、という結論を下しています。しかし、ここに立っているレバレンド・ムーンは可能だという結論を下しています。 皆さんの良心はどれほど大きいですか? 良心が神様を占領したとき、それで終わると思いますか? 神様よりも大きいものがあるなら、より大きなものを占領したいのが良心の欲望です。 では、良心の欲望がいったい何をしようというのでしょうか? 宇宙で最高のものがあるなら、その最高のものも占領し、また、それ以上のものがあればそれをも占領しようとするのです。 では、神様の良心はどれほど大きいでしょうか? 人間の良心と神様の良心を比較すれば、どちらの良心がより大きいでしょうか?神様の良心が人間の良心より大きいなら、その良心で何をするのですか? 神様が一番占領したいのが、このうえなく大きな人間の真の愛に対する欲望だという結論が出てきました。 神様が絶対的なおかたであられるなら、一人でいて寂しいでしょうか、幸福でしょうか? 皆さんがいくら大統領でも、妻がいなくて一人で暮らすならば、かわいそうです。愛の対象がいなければかわいそうになるのです! 神様も相対が必要でしょうか、必要ではないでしょうか?いくら神様でも、一人では寂しいのです。人間はお金や知識、また権力がなければ寂しいのですが、神様はお金や、知識や、権力も必要ありません。 神様に一番必要なものが何かが問題です。神様を何といいますか? 神様は愛の王である! もし神様が愛の王であり、新郎であれば、相対者たる皇后が必要だという話が絶対的原理です。では、絶対的な神様の前に愛の相対になるおかたはだれでしょうか? それは真なる人間です! 皆さんはお金や、知識や、権力を必要としますが、妻がいなければみな意味がないのです! 夫には妻や、子供が必要であり、妻にも夫と子供が必要なのです! そのような愛の対象が暮らす所が家庭です。違いますか? 私はここで、良心の欲望をいっぱいに満たす愛の主体である神様に侍り、その神様の愛の対象である男性と女性が一つになって、その愛で息子・娘と幸福によく暮らす。その家庭こそ、神様の真の愛を中心とした地上天国の最初の出発の基地にならなければならないのです。 私たち人間も愛する相対が、自分より何千万倍の無限大の価値ある存在であることを望むのと同様に、神様も自己の愛する相対が、無限なる価値ある存在になることを願うのです。そのような人が真なる人間でした。 皆さん! そのような男性と女性が、正にアダムとエバだったという事実を知りませんでした。神様が主体なら人間が対象の立場にある存在なので、神様の分身ではありません! 神様もまた他の別個の人格者だというのです! そうなり得る対象の前に、神様の何千万倍の期待できる価値的な存在になることを願う欲望を可能にすることのできる、私たち人間に許してくれたのが良心の欲望だということを、私たちは知らなければなりません。 神様が創造当時、理想として願った真なる愛、偉大なる愛を中心として、人間との愛の関係を結んで一つになるこのような神人愛一体の家庭を築いたなら、今日、私たちは天国だとか地獄だとかを心配することなく、ただそのまま天国にみな入るようになっていたのです。 ここで問題になるのは、神様の真の愛と人間の真の愛が、一つの主体的愛と相対的愛で、一つになって一点から出発しなくては、二つの愛の方向と目的地になるというのです。 このようになるとき、神様と人間が願う絶対的理想世界は見いだせないのです。この二つの愛が一点から出発できることを願われた神様のみ意は、堕落によって完全に停止してしまったのです。 サタンの愛を中心として偽りの父母が生まれ、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだこのような後孫なので、これは全部地獄に行くのです。天国とは関係がないのです。 ですから、肉身の欲望を抑えて、心を思いどおりにすることのできる人を中心として、良心を通して神様の愛を占領しなければならないという事実を知りませんでした。 皆さん、恋の病を知っていますか? 恋の病にかかった人がいるなら、恋の病にかかった動機を解決してあげれば万事が解決するのです。 堕落した人間ですが、堕落しなかったアダムの本性が残っていて、それが恋の病のように神様の愛を恋い焦がれ、また恋い焦がれるようになったというのです。良心は神様の真の愛を、どのように占領するのでしょうか? 何かお金があり、知識があり、権力があっても、自己の命を懸けて愛する人を失ってしまえば、役に立たないのです。 皆さんが心を解放させ、解怨成就させて、三六〇度をもって解放圏を良心世界に放てば、その良心は自然と神様の真の愛と連結されるのです。愛と良心のどちらが大きいかといえば、愛が大きいというのです。なぜなら、良心は愛から始まったので、愛がより大きいということを知ることができます。 良心を解放させ、神様の真の愛と一つとなって暮らしてから入る所、神様の愛の血族のために準備して、愛を中心として暮らしてから入る所が天国だというのです。この愛を占領できなければ、永遠に天国に入れず、その日のために数千万年を待たなければならないというのです。堕落によって失われた、真なる神様の思想と経綸の明かりが人間たちに、神様の真の愛を備え灯されて一体にならない限り、天国とは関係がないのです。 真の良心と、真の愛が一つになって暮らす人は、天国に自動的に入ります。イエス様を信じても、神様の愛との連結ができない者は、天国に入れません。心と体が闘う者は天国に入れません。サタンの血統を受けて紛争する者は天国に入れません。 このようなことを開拓すべきすべての宗教が、自ら闘うときには、終わりの日にみな滅びるようになります。闘う所には神様がおられません。それゆえ、宗教というものは体を打って良心を解放させる方便的な運動であって、これが救いの門を開く鍵ではありません。 神様の真の愛を中心として真の愛と真の生命と真の血統を受け継がなくては、救いはあり得ないという事実を知らなければなりません。宗教を信じることによって救われるのではなく、宗教は体を弱めるものです! 良心の解放圏を備えるようになれば、良心の欲望は神様より高くなる資格があるというのです! 皆さん、私がすることを良心が先に知っているでしょうか? どうですか? 良心が先に知っているのです。私たち人間は相対的な存在なので、人格が異ならなければなりません。個性が異なるのです。人格が異なるのです。 もし、神様が先に知るなら、神様の分身であり、一つの体なのです。そうなれば、相対的な理想は自己自らがしなければならないということです。アダムとエバが堕落した後で神様が、「おい、アダム! おまえはどこにいるのか?」とまず聞くのです。 対象的な人格者としての人間は、神様の真の愛から出発したので神様に帰るのです。神様に帰らなければならないのです。父母が百歳になり、息子・娘たちが年を取って八十歳になるなら、父と子は父子の関係はもちろん、友にもなるのです。 男性と女性を力で比較すれば相手になりませんが、愛というものが介在するなら、夫と妻が互いに押したり引き寄せたりしながら一つになるというのです。神様の前に対象的な愛の存在になったなら、神様が喜ばれるでしょうか、喜ばれないでしょうか? 神様が理想的な対象を願いながら、愛の対象が完成する前にこの宇宙をおつくりになりましたが、愛の対象として完成した後に、アダムとエバがそれ以上に大きなものを再び創造してほしいと言えば、神様には創造なさることのできる能力があるでしょうか、ないでしょうか? 私たちの良心の欲望が無限なものであっても、それを創造してくれる神様だということを知らなければなりません。 このように無限なる神様の真の愛を中心として、対象の価値としてつくられたという事実を完全に失ってしまったので、これを再び回復しなければならないというのが、人間の生涯であり、人類歴史の目的だったということを知らなければなりません。神様は宗教を立て、宗教の主人たちが再び来るといいました。キリスト教はイエス様が再臨するといい、仏教は弥勒仏が来るといい、儒教は真人が、イスラム教はマホメットが再臨するといいました。 神様が宗教を立てた目的は何でしょうか? 神様が一番愛する息子・娘、神様の骨と肉が一つになるそのような愛する息子・娘を中心とした愛する家庭、氏族、民族、国家を形成するのが神様のみ旨であるということを、皆さんははっきり知らなければなりません。 それでは、メシヤはどのようなかたであるかということを皆さんは知らなければなりません。永遠なる神様の真の愛を根として、初めて地上に来られて、すべての宗教が願う理想を完成するおかたが再臨のメシヤだということを、皆さんは知らなければなりません。そうして、真の父母となって、失ってしまった真の愛を中心として、真なる生命と真なる血統を地上に理想家庭として探し立てようというのが、神様の救援摂理の目的でした。 堕落によって神様は、アダム家庭の真の母と息子・娘たちをみな失ってしまいました。神様が持つことのできる真の息子・娘がいなかったのです! 神様の真の愛を中心として、血統的な因縁を持つ神様の家庭がなかったのです。 堕落した父母によって、偽りの愛と、偽りの生命と、偽りの血統の因縁を結ぶことで、私たちの心と体の闘いが起こりました。アダムとエバが怨讐になりました。アダムの息子・娘たちの殺戮戦が起こったのです。 それゆえ、神様がこれを復帰するための救援摂理をしました。救援摂理は復帰摂理なので、失ってしまった真なる心と体が一つとなった息子・娘となり、絶対的に一つになる夫婦、息子・娘が絶対的に神様の真の愛を中心として完全に一つとなって、神様と永遠に共に暮らすことのできる真の家庭を、新婦格であるキリスト教と連結させ、神様と血縁関係を結ぶことによって、神様の真の愛で統一された家庭、氏族、民族、国家、世界を再び編成しなければならないというのです。これが神様の救援摂理の完成なのです。 アルゼンチンで暮らすこの国の指導者の皆さん! アルゼンチンが神様の祝福を受けることを願うでしょう? そのためには神様の真の愛を中心として、心と体が一つとなった民にならなければならないのです。 神様の真の愛を中心として、夫婦が絶対的に一つにならなければならないのです。神様の真の愛を中心として、子女が絶対的に一つになる家庭を持つその家庭が、アルゼンチンに多くなるとき、神様がこの国に来て暮らすようになるのです。そうなれば、自然にこの国も世界の中心国家にならざるを得ません。 自分の一番愛する人が農村や貧民窟にいるとしても、その愛する主体は対象が暮らす所に行って、共に生きたいのです。どのような所でも、愛する人がいる所に行って暮らしたいのと同様に、神様も一番愛することのできる息子・娘のいる所があれば、農村や貧民窟も天国になるのであり、上流層も天国になるのであり、中流、そのあらゆる環境を超えて天国になるという話なのです。 さて、きょう統一教会の教主という人がここに現れて話をしています。 統一教会とはいったい何をする所かと尋ねるなら、神様の真の愛を紹介する所です。また、真の愛を中心として心と体が一つになるようにしようとする所であり、心と体が一つとなったその夫婦を、絶対的に一つとなった理想的夫婦にしようとする所です。 その息子・娘は絶対的に分かれない統一された兄弟にしようとするそのような主義で、神様の命令によってその使命を遂行するのが統一教会だ、ということを伝達いたします。 偽りの父母から偽りの愛と偽りの生命、偽りの血統で始まったすべての汚されたものを完全に清算し、真なる神様と真なる父母の愛を中心として、私たち夫婦は真の父母となって、神人愛の一体となった真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木するための礼式が国際合同結婚式になるのです。 堕落によって偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の種を受け、偽りの結婚式をした家庭を反対に復帰するために、新しい結婚式に国際的にすべての家庭を参与させ、天の大きな祝福を伝授してあげようとする礼式が祝福結婚なのです。アルゼンチンの全国民が大きな祝福を受け、天国家庭に転換され、地上天国に入籍する国民になることを願ってやみません。 こうして、超国家的な血縁関係を結成して、神様を中心とした天宙的大家庭主義を形成することによって、真なる父母主義、夫婦主義、兄弟主義を宣布して心情文化世界を迎えることによって、地上から天上世界まで、天国に入ることのできる解放された地上天国世界を完成しようというのが、統一教会の目的なのです。 第二次大戦以後、レバレンド・ムーンは全世界的に五十年の間、迫害を受けてきました。知ってみると、罪があったからではなく、人々を救うために多くの迫害を受けたことを知る時代になったので、今は反対に、一番立派だと考えるようになりました。 レバレンド・ムーンの手によって、共産主義が滅びました! ゴルバチョフと金日成を教化させたのがレバレンド・ムーンです! 滅びていくアメリカを救おうと、レバレンド・ムーンでなければならないという、そのような希望的な体制をつくっておきました。 レバレンド・ムーンが言ったことはみな成してきました。全世界がレバレンド・ムーンを亡き者にし、殺そうとありとあらゆることをしましたが、死なずに堂々と世界の頂上に立って、きょうも叫ぶことのできる立場に立ったのは、天が愛するからであり、神様が絶対的に保護するから生き残ったという事実を、きょう、皆さんは知って、統一教会について命を懸けて、これを学んでみなければならないと思うのです。 きょうこのような意義深い日、会って信じるに値する立場で、一番重要な事実について紹介しました。どうぞ忘れずにこの道に従って、皆さんが新しい覚醒のもとに決意して、皆さんの家庭と皆さんの国に、祝福を誘導する指導者になるようお願いします。これによって、理想的家庭が皆さんの国に出発し始めるのです。 皆さんもご存じのとおり、レバレンド・ムーンの夫婦は、真の父母という名をもって全世界に知られています。今日、私たち夫婦が真正なる真の父母として、真なる愛、真なる生命、真なる血統で天と連結されたのが事実なら、この地上には平和を成す真の家庭と私から、解放と、自由と、統一と幸福の天国が始まるということを記憶してくださるようにお願いします。 皆さんの家庭と国に、神様の祝福があるように祈ります。 ありがとうございました。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2022.10.02 20:02:52
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