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志賀直哉作小僧の神様とハカリ技術の変遷
Naoya Shiga's "The Little Monk's God" and the Evolution of Scale Techniques 「小僧の神様」(こぞうのかみさま)は、1920年(大正9年)に雑誌「白樺」1月号に発表された志賀直哉の短編小説である。この作品がきっかけで、志賀は「小説の神様」と呼ばれるようになるほど知名度を上げる。 あらすじ 神田の秤屋で奉公をしている仙吉(小僧)は、番頭達の話で聞いた鮨屋に行ってみたいと思っていた。ある時、使いの帰りに鮨屋に入るものの、金が足りずに鮨を食べることができない仙吉を見かけた貴族院の男(A)は、後に秤屋で仙吉を見つけ、鮨を奢る。鮨を奢られた仙吉は「どうして番頭たちが噂していた鮨屋をAが知っているのか」という疑問から、Aは神様ではないかと思い始める。仙吉はつらいときはAのことを思い出しいつかまたAが自分の前に現れることを信じていた。一方Aは人知れず悪いことをした後のような変に淋しい気持ちが残っていた。ちなみに本文の十節には「『Aの住所に行ってみると人の住まいが無くそこには稲荷の祠があり小僧は驚いた』というようなことを書こうかと思ったが、そう書くことは小僧に対して少し惨酷な気がしたため、ここで筆を擱く」というような擱筆の文が挿入されている。 志賀直哉作小僧の神様とハカリ技術の変遷 ![]() 写真は青虫を求めって森の中を飛び回るシジュウカラ。いま育雛の最中であり命が輝ている。 志賀直哉と「小僧の神様」 志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉10月21日)は、日本の小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。宮城県石巻生まれ、東京府育ち。明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「城の崎にて」「小僧の神様」など。 「小僧の神様」(こぞうのかみさま)は、1920年(大正9年)に雑誌「白樺」1月号に発表された志賀直哉の短編小説である。この作品がきっかけで、志賀は「小説の神様」と呼ばれるようになるほど知名度を上げる。 あらすじ 神田の秤屋で奉公をしている仙吉(小僧)は、番頭達の話で聞いた鮨屋に行ってみたいと思っていた。ある時、使いの帰りに鮨屋に入るものの、金が足りずに鮨を食べることができない仙吉を見かけた貴族院の男(A)は、後に秤屋で仙吉を見つけ、鮨を奢る。鮨を奢られた仙吉は「どうして番頭たちが噂していた鮨屋をAが知っているのか」という疑問から、Aは神様ではないかと思い始める。仙吉はつらいときはAのことを思い出しいつかまたAが自分の前に現れることを信じていた。一方Aは人知れず悪いことをした後のような変に淋しい気持ちが残っていた。ちなみに本文の十節には「『Aの住所に行ってみると人の住まいが無くそこには稲荷の祠があり小僧は驚いた』というようなことを書こうかと思ったが、そう書くことは小僧に対して少し惨酷な気がしたため、ここで筆を擱く」というような擱筆の文が挿入されている。 登場人物 仙吉 神田のある秤屋に奉公する十三、四の小僧。番頭 仙吉の奉公する秤屋の番頭。ある秋、若い番頭と鮨屋の話をする。若い番頭 仙吉の奉公する秤屋で働いている。鮪の脂身が好きでそのことを番頭に話題にされる。幸(こう)と呼ばれている。A 若い貴族院議員。同僚に通の話を説かれ屋台鮨に赴く。B Aの同僚。鮨の趣味の通をAに説く。後にAと共にY夫人の音楽会に行く。Y夫人 AとBが参加する音楽会を主催。力強い独唱がその前に感じたAの「淋しい気持ち」を和らげる。屋台の鮨屋の主 仙吉が最初に入った鮨屋の主。仙吉が取ろうとした鮪のお代が足りないこと指摘し、その後彼が手放した鮨を食べて処理する。松屋の近所の鮨屋の主 充分食べておくれとお代を渡したAのことを仙吉が顔馴染みでないと言ったのを聞いて、かみさんと顔を見合わせる。かみさん 松屋の近所の鮨屋に連れて来られた仙吉を案内する。障子を締め切り、仙吉が遠慮せず見栄もなく食いたいように食えるようにする。細君 貴族院議員のAの細君。Aが仙吉に鮨を奢った後感じた淋しい気持ちを打ち明けられる。Aとの間に幼稚園になる子供がいる。伯母 仙吉の伯母。お稲荷様信仰が極まり、仙吉の前でも予言やものの言い当てをしたことがある。作者 物語の最後に現れて、書かないことにした結末を読者に示す。 テレビドラマ 1957年、日本テレビの『山一名作劇場』(山一證券一社提供。火曜20:00 - 20:30)で放送された。脚本:梅田晴夫。演出:池田義一。出演:木村功・鈴木春夫・加藤治子・島田妙子。 1962年5月6日、NHK総合テレビの『こども名作座』で放送された。出演:中条静夫。日本テレビ 山一名作劇場。 (タイトル) 志賀直哉作小僧の神様とハカリ技術の変遷 (本文) 志賀直哉が大正九年(1920年)一月に発表した短編『小僧の神様』(白樺)のあらすじは次のとおりである。志賀直哉37歳の作品。 ハカリを買いに来た上品な客が自宅への荷物搬送を謝すると小僧に御馳走をする。神田駅の高架下を潜った路地にある小さな鮨屋に代金がわたされており、小僧に好きなだけ食べろという。鮪の握り鮨が充満していた小僧は三人前をがつがつと食べた。鮨屋には代金を払った人は初見であった。鮨屋の主は代金はもっと貰っている。粋な人なんだのだからまた来てくれなくては困ると言う。小僧が鮨に飢えていることを見透かした上さんは障子を閉めて食事をさせた。小僧は鮨屋をでるときに無闇にお辞儀をするのであった。小僧はその鮨屋には足を向けることがなかった。 鮪(まぐろ)の脂身が美味しくなる秋のころであり、店の大番頭と若い番頭の二人が、その高架下の路地の先の鮨屋が評判であるという噂を聞いていて、言い出したその日に二人で食べに行く話を小僧は耳にして唾を飲み込んだ。小僧は歩いて帰ることで浮かしたお電車賃の四銭で屋台の鮨屋で海苔巻き鮨を食べようとしたが、この日は海苔巻きは支度されていなかった。鮨台にある鮪のにぎりを手にすると六銭だという。小僧が屋台を後にするのを見ていたのがハカリを買いに来た上品な客であった。 粋な人なんだ幼稚園に通っている子どもの成長を体重で計るために運送屋にあるのと同じ構造の小さなのを神田のハカリ屋で買い求めた。代金が足りなくて屋台の鮨を食べ損ねた小僧が居ることを知り、荷物の運送を特別に頼んだ。番頭たちが話していた鮨屋で小僧に御馳走するためである。屋台の鮨屋で小僧の振る舞いの一部始終をみていた上品な人のことを知らない小僧はハカリを運ぶ苦労への報いだとする御馳走に戸惑うが鮪鮨への思いによって気持ちは舞い上がる。小僧は美味いもの、食べたいものを腹いっぱい食べたのはこれが初めて出会った。 もしかしたら四銭しか持たないために六銭の鮪の握り鮨を食べられなかったようすを見ていたのが、上品な人だったと思いをめぐらす。連れていかれた鮨屋が番頭たちが噂していたその店である。自分の心の中まで見通したうえで、番頭たちの会話を知っているのか不思議でならない。 小僧にはあの客「上品な人」が忘れられないものになった。それはただ有り難いということであり、悲しい時、苦しい時に必ず「あの客」を想った。それは想うだけで慰めになった。小僧は何時かまた「あの客」が思わぬ恵みを持って自分の前に現れる来ることを信じていた。 『小僧の神様』に登場する京橋のSとは江戸のハカリ屋時代からの守随である。 小僧は仙吉といい、神田のハカリ屋に奉公する13歳か14歳。京橋にあるSという同業に度々使いに行く。京橋のSとは江戸のハカリ屋時代からの守随である。屋台の鮨屋に行ったのは守随に使いに行って、小さいけれどもずっしりとして重たい真鍮の分銅を受け取った帰りである。帰りの電車台の四銭で海苔巻き鮨を食べようとした。考察すれば京橋のハカリ屋といえば守随で違いない。作者がわざわざSと表記しているのは守随がそれだけ有名であり、この当時、東京いや日本を代表するハカリ製造企業であった。 ハカリ製造の歴史をたどれば、こうかん式ハカリから、バネ式の自動ハカリに移り、その後は機械機構を巧みに使ったデジタルはかりが登場、デジタルを電子方式で実現する光電式ハカリ、そして電磁力平衡式ハカリが登場する。電磁力平衡式ハカリと相まって静電容量式、ロードセル式、音叉式の各はかりが普及する。現在のハカリの出荷台数の8割か9割ほどはロードセル式になった。 京橋のSは、バネ式への移行に遅れ、ロードセル式が普及するころには事業を閉鎖している。江戸時代からつづく老舗ハカリ製造会社であるから資産を貯えており、不動産を運用に家業を切り替えている。 小学校か中学校の教科書にも載っていて、中学か高校かの入学試験の問題にもだされる志賀直哉の『小僧の神様』はハカリ屋に奉公する小僧「仙吉」の物語であった。ある鮨チェーンの名称は志賀直哉の『小僧の神様』から取っている。 2024-06-15-naoya-shigas-the-little-monks-god-and-the-evolution-of-scale-techniques- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年06月17日 00時00分11秒
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