智麻呂邸に立ち寄った後、恩智川沿いを少し銀輪散歩してから家に帰りました。真っ赤な夕日が西の空に沈んで行き、見返すと、それと入れ替わるようにして、生駒山の上にポッカリと月が出ました。
ポッカリ月が出ましたら、
自転車漕いで帰りませう。
何やら調子の良い言葉が口をついて出ると思ったら、何のことはない、中原中也の詩の一部をなぞっているのでありました。処どころうろ覚えのその詩を口ずさみながら、暮れ行く恩智川辺を家路へと辿りました。
(生駒山の上に満月が・・)
今日は旧暦の9月15日。満月なのでした。
中原中也の詩「湖上」のポッカリ出る月も、やはりこのような満月でないといけませんでしょうな。大伴家持が「ひと目見し人の眉引き」を思い出した「初月(三日月)」では、似合わない。
湖上 (中原中也「山羊の歌」より)
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
沖に出たらば暗いでせう、
櫂から滴垂る水の音は
昵懇しいものに聞こえませう。
――あなたの言葉の杜切れ間を。
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇する時に
月は頭上にあるでせう。
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
(18歳の中也)
<書斎の奥にあった中原中也全集(角川書店)の扉写真をデジカメで撮影しましたが、これは著作権法に抵触するのかな。さにあらば、削除しますが・・(笑)>
中也の詩で月が照っている詩は次の2篇が思い浮かぶが、これは愛児、文也を亡くした後の作であるから、同じ月でも上の詩とはガラリ様相を異にする。
月の光 その一 (中原中也「在りし日の歌」より)
月の光が照ってゐた
月の光が照ってゐた
お庭の隅の草叢に
隠れているのは死んだ兒だ
月の光が照ってゐた
月の光が照ってゐた
おや、チルシスとアマントが
芝生の上に出て来てる
ギタアを持っては来てゐるが
おっぽり出してあるばかり
月の光が照ってゐた
月の光が照ってゐた
(注)チルシス=ヴェルレーヌの詩「マンドリン」の中の人物。ウェルギリウス
の「牧歌」に出て来る羊飼い。
アマント=同じく「マンドリン」の中の人物。こちらは、タッソーの牧歌
「アミンタ」の主人公。アミンタのフランス語読みである。
月の光 その二 (同上)
おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる
ほんに今夜は春の宵
なまあつたかい靄もある
月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる
ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない
芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます
おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間
森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲んでる
<関連記事>2007.9.13. 「中也と泰子」
2007.8.29. 「落陽は・・・」
2007.5.14. 「中原中也の紛れ来て」
<追記・注>
「18歳の中也」の写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月28日これを復元修正しました。
●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.