地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「フォトジャーナリスト13人の眼」
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会 2005/08 集英社 新書 254p
★★★★★
一つの人物像がある。若い時代に日本キブツ協会に属して、その事務局の仕事をやり月刊「キブツ」を編集し、イスラエルのキブツへのツアーを企画する。自らもキブツの思想に共鳴し、日本においては70年代中半、東京郊外の福生の米軍ハウスで仲間たちと共同生活をする。そしてミニコミ雑誌「花の子供達へ」(だったかな)を発行する。
ミニコミを発行し、都市型の共同生活コミューンに参加しているというライフスタイルから、20才前後の私は、この人物に取材したいと思って、福生の米軍ハウスを訪れたことがあった。しかし、この通称ヒロという人物、残念ながら、不在で会うことはできなかった。この人物、会うことができなかったけど、あれからどうもいつも気になっていた。
さてこの新書本「フォトジャーナリスト13人の眼」を読み、一番最初に広河隆一氏が出てきて、ふと、上記の人物像を思い出した。広河氏が私の想像している人物と同一かどうかはたぶん確率50%のあいまいさだ。
このブログでは、ブログ・ジャーナリズムは芸術(アート)の次元に属することになってしまった。ほんとにそれでいいのだろうか。この新書本でジャーナルされているのは戦争だ。そしてその戦争に巻き込まれたひとたちのフォト画像がレポートされている。
この本のまえがきに辺見庸はこう書いた。
<撮る>とは一回的な、やり直し不可能な表現行為であるのに対し、<書く>とは継起的で、大方は事後的であり、それゆえ多くは修正可能でもある。即ち、<撮る>と<書く>とではスキルの質が大きく異なるだけでなく、表現に生き輝く時間帯が違うのだ。この二つの表現方法を同一のフォトジャーナリストたちが実践したら何が起きるのかーーというのも本書のいささか実験的なテーマであろう。読者はフォトジャーナリストたちが<撮る>ときの構図と<書く>構図の違いだけでなく、<撮る>文法と<書く>文法の相違に気づき、表現というものの霊妙に惹きつけれられるのではないだろうか。p12
撮ることと書くことには相違があることは認めるけれど、さて、本当に辺見のいうように、<撮る>とは一回的な、やり直し不可能な表現行為である、だろうか。フォトジャーナリストたちによる偽造報道は山ほどあり、例えばUFO画像などはほとんど眉唾ものだ。珊瑚礁を自分で傷つけて報道した大新聞記者もいれば、空に偽造して報道した写真家もいる。
このブログにおいて、かずかずの「罠」というものについて学びつつある私は、決して、容易にフォトジャーナリズムの「性善説」を信ずることはしない。今、助けを求める人を目の前にして、手をさしのべることなくシャッターを押しつづける自分とは一体何か、と自問自答するフォトジャーナリストもいるはずだ。
<書く>とは継起的で、大方は事後的であり、それゆえ多くは修正可能でもある、と辺見はいうけれど、本当にそうだろうか。仮りに30年前に書いたことは修正不可能であるし、仮りに修正したと言って、さて、それで何が修正されたというのだろう。
大学を出て1967年から1970年までイスラエルにいて、帰国後その報告を書籍にまとめたが、私はジャーナリストの道を選ぼうとは思っていなかった。p24(広河)
かつて、学生運動華やかし頃、フォトジャーナリズムも活躍していたが、その眼が、機動隊とともにあるのか、デモ隊とともにあるのか、を問われた時代があった。今、広河のレンズは、イスラエル側にあるのか、パレスチナ側にあるのか、とても関心のあるところだ。
そして今、広河のレンズがもしパレスチナ側からみているとすれば、前半生をイスラエル側からみていた自分の贖罪として、その後半生を逆の視点から見ることに賭けて、その人生を送っているかのように見える。私の見方はアイロニカル過ぎているだろうか。
この本には、インド仏教復興に尽力されている日本山の佐々井秀峰上人の画像もある。南無妙法蓮華経。
私はこの本を読んで、今は、軽く軽くこの本を読み飛ばそうと思っている。決してシリアスにはとらえない。フォトジャーナリストたちのアートを楽しむ、ということにウェイトを置いておく。