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カテゴリ:マルチチュード
「レヴィナス入門」
熊野純彦 1999 新書本は数十の出版社からシリーズででており、毎月数百冊が刊行され続けていると思われる。その中にあって、なかなか手に入らない本もあるかと思えば、大量に読み捨てられていくものだってあるに違いないと思われる。宮崎哲哉のように出される新書本を全部読んでやろう、ということはできないまでも、普段の自分の読書の範囲を広げて、ちょっと手を伸ばしてみたくなる本が、新書本としてでてくる、というのは歓迎すべきことだと思う。 ネグり+ハートのマルチチュードという概念にぶち当たってから、どちらからというといわゆる哲学といわれる分野の本に目を通す機会が多くなったが、今のところは、何を理解したか、ということよりは、何があって、何に目を通したか、ということに重点があるということである。 私の「唯一性(ユニシテ)」が際だったものであるのは、私が他者との関係のうちにあり、その関係のなかで逃れようもなく<私>でしかないことによってである。殺さない以上、つまり他者を<他者>として、<私>に還元不能なものとして遇する以上、私は(殺すのではなく)呼応しつづけるほかはない。呼応しつづけるという、この責務には際限がない。他者が無限であるかぎり、呼応にはおわりがありえないからである。この<責め(ルスポンサビリテ)>において、私が<私>として構成される。<責め>の無限性こそが私の唯一性、あるいは「単独性(サンギュラリテ)」なのである。 p147 書かれた言語や、翻訳者のセンスにより、さまざまな屈折があるが、ここで書かれているルスポンサビリテは英語でのリスポンシビリティであるだろうし、責任というニュアンスと、呼応というニュアンスが交じり合っているところが興味深い。またサンギュラリテは、まさにマルチチュードに対峙する概念であり、個と多様性を際立たせる言葉でもある。シンギュラリティーなどとも表記される。 1905年、ロシア第一次革命の年にリトアニアに生まれ、1995年のクリスマスの日になくなったエマニュエル・レヴィナスは、20世紀をユダヤ人として生き延びて、何を見、何を思索してこの世を去ったのであろうか。スピノザもユダヤ人としてユダヤ社会を追放されつつ17世紀を生きたのであったが、「哲学」するときは、このユダヤ的な思考法とは何なのだろうか、と何度も何度も思い返させられる。 この書などに書かれている世界は、私が生きている時代や空間から、程遠い、地球の対極にあるような感じさえするときもあるのだが、この書の著者もそうであったが、前に読んだスピノザ解説の本の著者も、なぜか私と同じ市内に生きて活動している、ということが不思議である。多様な価値観を共有しうる現代社会の中にあって、それらとの距離を確定してしまわず、なんとか自分との近似性を見つけて、それらを手繰り寄せてみようという拙い努力は続く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.09 23:30:54
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