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カテゴリ:アガルタ
![]() アンダーグラウンド<3>からつづく 『アンダーグラウンド』 村上春樹 1997/3 講談社 <日比谷線(中目黒発)> 人生の中で、人間ひとりひとりは「死」そのものを意識するチャンスというものはどのくらいあるのだろう。まったくそのような体験をしたことがない、という人はいないかもしれない。戦争中の国民だったら、空襲のたびにそのような体験をしただろうし、現在、戦時下にある国民なら、毎日がまさに死と隣なりあわせて暮らしている、という人々がいるに違いない。あるいは病気や仕事柄、つねに死を意識せざるを得ないだろう。 でも、この地下鉄サリン事件に遭遇した何千人の人々の中には実際に命を落としたひとが何人もいる。死ととなりあわせどころか、死んでしまったのである。また、死んでしまった人の隣りに座っていた人も、いる。ほぼ死亡状態から生き返った人もいる。数千人の人々のほとんどは、事件の体験がトラウマとなり、PTSDになる可能性があった。実際にそうなった人々が多くいる。 死、という言葉は簡単に語られすぎている。ポアという言葉も、死を意味するのだった。麻原集団は、死と隣り合わせの旅路だった。メンバーの何人かは殺害された。その主要メンバーの1人は実際に刺殺され、その残りのほとんどは、現在、死刑判決を受けている。麻原の死刑も確定した。なんというタナトスだろう。 地下鉄サリン事件に遭遇した乗客たちの中には、当時を思い出したくないという人々が多くいる。事故現場を通るところか、近づくことさえ出来ない人も多い。ひとりひとりのケースを拾いながら、この村上の『アンダーグラウンド』はひとりひとりの人生と「死」を問う。 死を問う場合、他者における「死」と、自己の「死」と、まったく違った次元がある。この村上の一冊にでてくる多くの人々は、他者における死ではなく、自己を死を問われた。また現在でも問われ続けている人もいるに違いない。村上自身にどのような自己の「死」の体験があったのかわからない。しかし、いままで見てきたところ、島田の世界における島田自身の自己の「死」の体験が語れるところをまだ私は見つけていない。私がどうしても島田に違和感を持ち続けざるを得ないのは、ここのところに要因があるのかもしれない。 心理学者としてトランスパーソナル心理学を牽引する諸富祥彦は、さかんに自著において、自らの心理状態を描く。特に10代から20代までの長い期間における心理状態は、彼の研究の土台となっているようだ。誰にもそのようなことを求めているわけではないが、私がどうしても島田の宗教「学者」としての存在に最後の最後まで違和感を感じるのは、島田が「自らの死」をどのように感じていたのか、どのように「死んだのか」が、まだ私にはわからないからではないだろうか、と推測してみた。 私自身のことを考えてみた。私自身もいくつかの「自己の死」を体験している。その体験や出会いが、自らの世界を形作っている。ただ、簡単には語れない。語る、という意味がわからない。語ったとしても、他者にとっては意味がない。「自己の死」を体験した者同士だけが、分かり合える共通項というものがあるかもしれない。あるいは、他者の中にある「自己の死」を推測できるなにかがあるように思う。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.31 13:14:25
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