「創価学会」
島田裕巳 2004/6 新潮新書
フリチョフ・カプラの「タオ自然学」の共訳者として登場していらい、島田裕巳という人物には、紆余曲折の人生があり、毀誉褒貶の波風があった。「宗教学者」として自らのイメージを固めることがなかなかできないでいたように想うが、ここに来て、創価学会をターゲットにして、どことなく水を得た魚の如く、生命力を取りもどしているかのようでもある。この2004年の本に続き、2006年8月には大冊「創価学会の実力」を出している。
一般の人たちが、創価学会のことを毛嫌いするのは、創価学会が日本の戦後社会が戯画だからではないだろうか。自分たちとまったく無縁なものであるとするなら、毛嫌いする必要もない。ただ無視していればいいはずだ。しかし、創価学会の悪口を言う人は少なくないし、創価学会や池田大作のスキャンダルに対して、決して無関心ではないのである。p186
島田がニアミスを起こして集中攻撃を受けた麻原集団については、「おわりに」でこう触れている。
1995年に起こったオウム真理教の事件を通して、筆者が専門とする宗教学のあり方が問われた。とくに、研究対象との距離の取り方が問題になった。現実に存在する生きた宗教に対していかなる距離を取るのかは難しい問題で、その距離が近すぎれば教団寄りと見なされ、逆に遠すぎれば、本質的にとらえることが困難になってくる。
本書は、その困難な問題に対する一つの回答の試みでもある。けっきょくは、客観的であることをつねに意識しながら、対象に対して果敢に肉薄していくしかないのではないだろうか。p191
100歩譲って、島田の言やよし、と認めることにしよう。しかし、それは、「死」についての問題と同じく、「宗教」については、「客観的」に「肉薄」することで得られることなど、ほとんどないのである。宗教学者としての島田は、自らの立場や身分、業績を形作ることに急であるが、彼自身が、宗教人であり、魂の探求者である、ということにはならないのである。
島田は昨日の自分のブログで「『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』刊行のお知らせ」をした。 麻原集団被害者の会(笑)の仲間である二人が、ここに来て、互いの位置関係を計り、未来に向けての地球人スピリットに益する「学問的成果」を挙げてくれることを期待する。
本書とは直接関係ないが、私の立場は、ブッタの2500年サイクルの法輪は、すでにインドに帰ったのであり、いま新たな形で、次の2500年サイクルが始まってしまった、というものだ。日本社会における創価学会をはじめとする立正佼成会や霊友会などの日蓮ゆかりの流れが隆盛したことと、インド度社会において、アードベンガルや、それを継ぐところの佐々井秀嶺に代弁されるような新仏教徒運動が、インド大陸で大きな波を起こしていることと無関係ではないと見る。
私はどんなに間違いがあったにせよ、麻原集団の試行錯誤を裏で支えてしまったかもしれない、新しい潮流が、すでに始まっていると見る。グローバルな視点が叫ばれるが、やはりまだまだ地球は広い。交通や情報が発達しても、一個の生身の人間の体をもつ存在としては、一つの思想や宗教性が、地球全体を覆うには、それなりの時間がかかるだろうと思われる。
それは、1年や2年ではないだろう。ましてや10年20年サイクルでもちょっと無理なようだ。ただ100年200年はかからないのではない。少なくとも人間の世代で3代、80年から90年もあれば、地球人のスピリットは大きく変わるだろう。それこそ、22世紀あたりには、仏教やキリスト教やイスラム教を超えた地球人スピリットが大勢を占めることになるはずだ。
ということは、まだまだいまから「終わりの始まり」の作業につく潮流もあるだろうが、中堅どころではすでに「始まりの始まり」が始まってしまっているのである。なぜ、そう言えるかというと、最先端部分では、すでに「始まりの終わり」を迎えているからである。
島田の復活を私は同時代人として大いに喜ぶ。島田には島田にしかできない仕事がある。今後も注目していきたい。しかし、ゆめゆめ、「日本」や「教団」という視点にとらわれてしまって、「地球人」や「スピリット」という原点を忘れないでもらいたいと思う。そして、客観的に見るとともに、直感する魂をすてないで欲しいと願う。