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カテゴリ:マルチチュード
<3>よりつづく
「サイバージャーナリズム論」<4> さて、この本、歌川令三、湯川鶴章、佐々木俊尚、森健、スポンタ中村、それに加えて公文俊平の6人が名前を揃えているのだが、残念ながら、このブログで読んできたのは、佐々木俊尚だけだ。他の人々の本も、存在は知っているものもあるが、まだ読んでいない。今後機会があれば、読んで行こうと思うが、タイトルからして少しずれてるぞ、と思われるものもある。 佐々木俊尚は、例のニューヨーク・タイムスの社是になぞらえば、大衆より、0.2か0.3歩進んでいるかな、と思わないわけではない。だけど、けっこう「堅実」な視点であり、本人は気づいていないかも知れないが、十分に保守的だ。あえていうなら、梅田望夫が、ようやく大衆より0.5歩先行している、と言えるかも。それに比して、スポンタ中村は、1.0歩までいくかどうかはともかくとして、かなりの前衛的ポジションを確保している。ある意味暴論的な部分もなきにしもあらず。 この本一冊を熟読するなら、本来は最初のページからやるべきだろうが、レスをもらったこともあるし、自分が一番共感する部分でもあるので、中村のところから、すこし読んでみたいと思う。6人による共同作業とは言え、中村が与えられたページは、280ページあまりある本書の中の10ページ足らず。あとは対談の15ページあまりのみ。この限られた紙数のなかで彼はいいたいことを十分いえたかどうかはわからない。だが、私個人としては、共感しうるとことが多々ある。 この項は「第七章 誰もがジャーナリストになれる? --- ジャーナリズムの進化論的変革を語る---」p207である。この本、副タイトルは「『それから』のマスメディア」だった。つまりはマスメディアのことを心配している本なのである。主なる著者である歌川令三は、もと毎日新聞記者、「新聞がなくなる日」の著書がある。元新聞記者においては、後輩記者たちに警告の意味があるのかもしれないが、私個人は、新聞がなくなっても、基本的には困らない。もっとも新聞販売店のみなさんや、家計を助けている新聞配達少年達には、このような発言をぶつけるのは心苦しい。便宜上許されたい。しかし、昔はいた牛乳配達少年はいまやいなくなったのだから、新聞配達少年がいなくなるのは、意外と時間の問題かもしれない。 我が家では、この数ヶ月新聞を実験的に停止している。困ることはほとんどない。あえて言えば、テレビ番組欄が読めない、地域の人の慶弔記事が読めない、さらに奥さんにしてみれば近くのスーパーの特売チラシが入ってこないこと、この辺が困る程度だ。すべて他の手段でなんとか補完しうることばかりだ。新聞がなくなる日には、私はある意味賛成だ。 ニュースはネットで読めるし、大体において余計なニュースが多すぎる。紙面では広告がだいぶ多過ぎるではないか。それに新聞がなくなれば、月々の購読料が浮く。それに廃棄物としての新聞紙がなくなるので、住居スペース的にも負担が軽くなる。ゴミ出しの手間が省ける。はてさて、この本、どちらの方向を向いているのだろうか。 論点その一「ジャーナリスト」とは”お偉方”の独占的称号ではない。p209 「ジャーナリスト、ってなんだね?」中学校一年の時の、母親の反応だった。現在85歳の彼女には、もちろん現在だってわからないだろう。新聞記者っていうならすこしはわかるかもしれないが、新聞記者っていったって、ちょっと前までは、半端モンのやることで、まともな職業とさえ見られない時代が長く続いたはずだ。いまさら、えらぶる必要もないと思うが。 同じような構造で、現在たとえば公務員なんてちょっと威張っているし、就職先としては多少は難関と言われているが、ついこの間まで、民間に就職できない奴が救済的に拾ってもらうところだった時代もある。戦後なんて、破産した国家のお勤め人なんて、まともな人間のなるものではなかった。まぁ、皮肉はともかく、職業の外的評価などは時代時代で変わるもの。偉いかどうかは、まぁ、まずはあまり関係なさそうだ。 たとえブログが影響力を増しているとしても、調査報道はプロにしかできない。そう考える報道関係者は多い。「パジャマのままでパソコンの前に座っているだけの人間に、ジャーナリズムが実践できるわけがない」。 米テレビネットワーク大手のCBS放送の幹部がある会合で、ブロガーをこう揶揄したといわれる。 その「パジャマのまま」のブロガー(ブログの書き手)たちが、プロのジャーナリストに挑み始めている。p56 戦地にカメラとともに命を投げ出すフォトジャーナリストもいれば、弱小雑誌を命を張って守るブラック・ジャーナリズムぎりぎりの人生もある。せっかく大手の通信社に採用されても経歴ゆえ冷遇されるジャーナリストもいる。それらに対峙して、パジャマのままパソコンの前に座るジャーナリストがいても、私はおかしいとは思わない。 まだ見ぬ真の「ジャーナリズム」 p209 ネット社会の急成長に危機感を覚えるマスメディアの住人達はともかくとして、ジャーナリスト、ジャーナリズム、ってものに、心から自らの人生を投げ出している人はどのくらいいるのだろう。ジャーナリズムってのも、まだはっきりしないコンセプトだが、「真のジャーナリスト」っていうのはなんだろう。私にとっては、ジャーナリズムってのは必要条件かもしれないが、十分条件ではない。十分条件ではないかぎり、100%ジャーナリストになったとしても、それだけで「真」になることはない。ジャーナリズムの前に、まずは、「人間」が問われるべきではないのか。真のジャーナリストになることを目的にするのではなく、真の人間になることが先行するのではないのか。その過程においてなら、ジャーナリズムも完成するに違いない。 各国それぞれ事情があろうが、<段ボール肉まん>中国のTV局が「やらせ報道」と謝罪などというニュースには、どういう救いを求めればいいのか。犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる、というジャーナリズムの大道を行ったにすぎないではないか。時が時なら、この記者は編集局長賞でももらうかもしれない。段ボール肉まんも浅ましいが、やらせ報道も、なんとも浅ましい。 どこにポイントがあるのか、ひとりひとりが人間として冷静に沈思黙考する必要が、まずあるのではないだろうか。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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新聞人の世界では、取材して得た情報を1次情報といいます。
作家の世界では、自分が体験したことが1次情報です。 ですから、他者を取材して書いた小説よりも、作者が体験した小説の方が重用される。 ありていに言えば、「窓際のトットちゃん」は、取材されて書かれた本ではないから、あそこまでヒットした。 アメリカでは、市民記者のことを市民レポーターと書く。だから、日本でも、レポーターとジャーナリストの違いを明確にすべきだと思っています。 ミーティングでは、時事通信社の湯川さんも、朝日新聞社の記者の方も、私はジャーナリストではなく、レポーターで生涯いたいと仰っていた。だが、そのような人は珍しいのでしょうね。 テレビでも、レポーターよりもアンカーマンが尊いとされている…。 そもそもジャーナリズムとは二次言論でしかない…。 私は、そのあたりのことを言及しようと思ったのですが、どこまで活字になったのか、なかなか難しいところがありますよね。 ありがとうございました。 (2007.07.28 06:53:28)
☆スポンタ中村さん
X次情報という話はよくわかります。私も実はOshoのところでの自らの1次情報としてまとめてみようとしていたところですが、これがなかなか完結しません。 それはなぜかというと、結局は、自分自身の生き方そのものを生きることでしか、その1次情報は書けないのではないか、と思いついたからです。 まぁ0次情報という言い方も正しいですよね。結局は、ジャーナリズムも方便で、ないよりはまし、という程度で、最後の最後、究極のアートには成りえないのではないか、などと考える時があります。 (2007.07.28 16:16:19) |
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