<第5作>よりつづく
「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」 <第6作>
ヘイデン・クリステンセン主演 監督ジョージ・ルーカス 2005年 20世紀フォックスホームエンターテイメントジャパン ディスク枚数: 2枚 140分
No.V067★★★★★+★★
第六作にして完結編。一作目のエピソード4へとつながる。製作年が2005年と最近に属するので、旧作3部作に感じたような、映画そのものに古臭い感じはまったくない。このくらい新鮮な画像なら映画館で見たほうがよっぽどいいだろうな。Googleの社員スタッフたちが、封切に当たって映画館を借り切ってこの映画を見た、というエピソードにも説得力がある。
第一作のエピソード4につながるストーリーが明かされる。平和や民主主義が語られながら、フォースのダークサイドに落ちていく。ダーススベイダーの誕生だ。生身の人間と化け物とロボットのCDが入り乱れ、どこまでは実写でどこからが特撮でどこからがCGかなんて、全く分らない。ただただストーリーに引きずりこまれていく。ガンダムなのか、ハリーポッターなのか、ロード・オブ・ザ・リングなのか、映画オンチの私には、全くわからなくなってくる。
戦闘シーンや戦争なんて見たくないと思っていた私だけど、このところ何本もこの手の映画をみたせいか、いつの間にか、免疫ができてしまったのか、戦闘シーンでもうっとり見てしまうところがある。いや、免疫というより、映画の見せる技術のほうが向上しているのだろう。
「2001年宇宙の旅」や「2010年宇宙の旅」を思い出すようなシーンもある。いろいろ混乱しながらも、小説が苦手の私にも、すこしはストーリーが見えてきた。帝国、共和国、反乱軍、ダークサイド・オブ・ザ・フォース、民主主義、平和、・・・・。マルチチュードの暴力に対する定義のことを思い浮かべた。
「マルチチュードとは誰か」
私が注意を促したいのは、こうした思考実験そのものではなく、そのことが持ている意味だ。ここで扱われるべきは、全面化されていく<社会的なもの>を根拠とした「敵」と「対抗者」との区分が、マルチチュードにとって受けがたいものなのだとすれば、「許される抵抗」と「許されざる抵抗」の境界線は、一体どのようにして引かれるのか、という問題なのである。
この点に関するネグリ=ハートの回答は、次のようなものだ。暴力に暴力で抵抗するような運動であってはならない。暴力は、<帝国>の支配から脱出する際に、以下の限定つきで用いられる。第一に政治目標の達成のために、第二に自己防衛のために、そして第三に民主的プロセスに基づいて。またその手段も、銃をとるようなものであってはならない。カーニヴァル的なパフォーマンスなど、新しい武器を発明することが必要なのであると彼らは述べている。p138
現代のネット社会においては、新しい武器とはなんだろう。
一人前のジェダイとなるためには、自分ひとりの力で部品を集め、フォースの導きにしたがって設計図なしで自らのライトセーバーを組み上げることが必須とされる。ウィキペディアより
このたとえを借りるとすれば、あの蛍光色にひかる剣=ライトセーバーに見立てるとすれば、現代のネット社会においては、新しい武器とは、個人メディアであるブログというツールもそのひとつであるかもしれない。
平和と戦争の狭間の中で、人間の魂は翻弄される。いずれが善で、いずれがダークサイドか。アメリカ帝国とオサマ・ビンラディンのことを思い出す。後世の歴史学者は、いずれが、暗黒面であった、と評価することだろうか。
この項<完>
あるいは<エピソー4>へ・・・
あるいは第7作「フォースの覚醒」2015へ