<2>よりつづく
「ツァラトゥストラ(下)」<3>
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ /小山修一・訳 2003/05 鳥影社 単行本 325p
No.959★★★★★
この訳書の秀逸なところは、文中に一箇所の註も、長たらしい解説もなく、ただただ現代文に訳された美しい詩文があるだけ、というところだ。「ツァラトゥストラ」を「心底愛している」という訳者小山修一にして初めて出来上がった一冊と言えるだろう。
わかるか、太古へと連なる源泉(みなもと)を知り究めた者は、ついには未来への泉と、新たに生まれる源泉(みなもと)を探し求めることであろう、---
おお、わが兄弟たちよ、遠からずして新たな民衆が陸続として生まれ、新たな泉から湧き出た泉の流れは、新たな谷をえぐり、歌いさざめいていくであろう。
つまり、大地が生まれ変わるのだ。---地震は多くの泉を埋め、多くの渇きにあえぐ者たちを生み出す。それはまた同時に、内部に蓄えられていた力と秘密を明らかにするのだ。
地震は新たな泉のありかを示す。古い民衆の拠って立つ大地が裂けるうちに、新たな泉がほとばしり出てくる。p117
革命にドグマチスト、オルガナイザー、アジテーターがいると仮定するなら、ニーチェのツァラトゥストラは、体系的な教義も持たなければ、優れた組織者でもないだろう。しかし、この心底から匂い立つような、激情としてほとばしるような、その心情の吐露。このツァラトゥストラが存在しているということ自体が、人々を動かす究極のアジテーションとなっている。
笑う者のこの冠、薔薇の花で編んだこの冠。わたしは自らの手で、この冠をわたしの頭に戴いた。わたしは自ら、自分の笑い声は神聖であると宣言した。わたし以外の何人も、今日(こんにち)自らそう宣言するほど逞しくはないと思った。
舞い踊るツァラトゥストラ、翼を振る軽やかなツァラトゥストラ、すべての鳥たちに飛ぶぞと合図するツァラトゥストラ、用意万端、至福を軽やかにつむぐ者。---
預言者ツァラトゥストラ、真の笑いを知るツァラトゥストラ、待つことができるし、絶対者でもない、跳躍と旋回の愛好者。こんなわたしが自らの手で、この冠をわたしの頭に戴いたのだ。p261
ここにあるのはカリール・ジブランが描くキリストでもなければ、ヘルマン・ヘッセが描くシッダルタでもない。もちろん、拝火教のゾロアスターでもないだろう。ここにはニーチェのツァラトゥストラがおり、ニーチェ自身がいる。Oshoが愛する本の筆頭にあげ、「彼を連れ戻したのは、彼に命を与えて復活させたのはニーチェだ」「私が愛した本」p9というのは、このことだろう。
<4>につづく