「ウィトゲンシュタインが見た世界」 哲学講義
黒崎宏 2000/06 新曜社 単行本 216p
No.973★★☆☆☆
当ブログは必ずしも書評ブログではない。結果的に図書館から借りてきた資料がテーマになることが多いが、その資料自体を紹介したり、コメントを加えることが目的ではない。敢えていうなら、資料を手にした時に、私の中ででてきたコメントをメモしておくということなので、きわめて私的で、共的には一貫性のないスタイルとなっている。
しかし、ブログを始めようとして登録してから、約半年の間、なにをしたらよいのかわからないまま過ぎた期間を考えれば、ブログ本来の使い方ではないにせよ、なにはともあれ、文字を書き続けている現在のスタイルは、当初よりは一歩前に歩み始めたことになる。
最初は、一人称をなんとしようか、ということでさえ、悩んだ。ぼく、なのか、僕なのか。私なのか、わたし、なのか。拙者、なのか、わたくしなのか。私たちなのか、我々なのか・・・・。そんなことですら悩んだ。ですます調にするのか、だである調にするのか、数字は、1、2、3、にするのか、一、二、三、にするのか、そんなことでさえ、いちいち引っかかる。
一日の分量はどのくらいがいいのか、著作権は大丈夫か、文字だけでいいのか、画像はもっと必要なのではないか。音をつけたらどうか、リンクをもっといっぱいつけたらいいのではないか、動画も必要だろう。他のひとのブログとの連携をどうするか、トラックバックを受けるべきか、こちらから積極的にトラバを仕掛けたほうがよいのか。
コメントはどうするのか、BBSはどうするのか。むしろひっそりと人目のつかない個人ホームページで展開するべきか、むしろ、バトルを推奨し、「炎上」ネタをバンバン繰り出したほうがよいのか。沈黙すべきか、プロボークすべきか。さまざまな悩みはつきない。
しかし、それは苦しみ、というよりは、楽しみだ。アイスクリーム・ショップにいって、トッピングをどうするか、思いめぐらしている段階といえる。ということで、この表題の本についても、私は責任あるコメントは書けない。今は短い印象をメモしておくにとどめる。まず思うことは、ウィトゲンシュタインと一口でいうものの、実に多くの人々の本があるのだなぁ、ということ。
ブースマは、ウィットゲンシュタインに預言者の姿を感じたわけである。
私は、ウィトゲンシュタインという哲学者を考えるとき、必ず思い出す言葉がある。それは
しかし一体、もし私が未だ人間でないならば、どうして私は論理学者であり得ましょう!
という言葉である。これは、1914年の6月または7月、ウィーンからラッセルに出した手紙の中の言葉である。当時彼は人間として精神的に苦悩しており、それを片付けなくては論理についての研究など出来ない、というのである。学者である前に人間として真っ当でなくてはならない、という彼のこの思いは、生涯続いた。p24
当然のことであろうなぁ。
ウィトゲンシュタインは「論考」において、こう言っている。
もしも人が、永遠という事を、限りない時間の持続という事ではなく、無時間性ということであると理解すれば、現在に生きる人は永遠に生きる。(6・4311)
現在に生きる人は永遠に生きる、とは言っても、人間はいずれは死ぬのではないか。しかし、人生の中に死はない。そして、たとえ限りない時間の持続という意味で永遠に生きたとしても、それによって人生の謎が解けるわけではない。p40
「死」の扱いは、哲学においても、宗教においても、個人ひとりひとりにおいても、人生最大の謎にみちたテーマであり、一番注意を要するところである。
ウィトゲンシュタインは「論考」において、こう言っている。
6.53 哲学の正しい方法は、本来こうであろう。語りえるもの以外、何も語らぬ事。したがって、自然科学の命題---それ故、哲学とは何の関係もない事---以外、何も語らぬ事。そして常に、他人が何か形而上的な事を語ろうと欲するときは、彼に、彼は彼の命題の中の或る記号に何の意味も与えていないことを立証してやる事。この方法は、その他人には、不満足なものであろう。---彼は、我々に哲学を教わったという感じを、持たないであろう。しかし、この方法こそが、唯一厳格に正しい[哲学の]の方法であろう。p46
失語しているのに、むりにブログを書き続けることなど、本当は、最初から無駄な所業であることになる。最後には、まったく失望してしまうことになるのであろうか。あるいは、歓喜に一筆加えることになるのであろうか。
ウィトゲンシュタインは「論考」において、最後に、こう言っている。
7 人は、語り得ぬものについては、沈黙しなくてはならない。
私はここで、「語り得ぬもの」として、「論考」の思想自体を考えたいと思う。「論考」の思想は、「語り得ぬもの」である。我々はそれを、擬似的に語る事によって、やっと示唆出来るのみなのである。そして我々は、一度それを了解した暁には、後はそれについては沈黙しなくてはならない。我々はもはやそれを、心の中でも思ってはいけない。「沈黙」とは、ただ口に出しては言わないということではなく、心の中でも言わないということなのである。 p58
ここまで言われてしまえば、ここにコメントを加える私は、アホみたいに見える(笑)。まぁ、いずれにせよ、ここまでくれば、これを哲学というか宗教というかは、あとはご自由にということになるであろう。
しかし、原点に返らなくてならない。しかし一体、もし私が未だ人間でないならば、どうして私は論理学者であり得ましょう!
Beyond Enlightment。十牛図の十番。人は、マーケットプレイスにいて、ごくごく人間として生きていく。それが人間なのだ。何も思わなくなったこころにもまた、言葉が還ってくることがある。それが人間だ。
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という語の使い方はかなり揺れ動いている。しかし、彼の意を体すれば、我々の「生活世界」は「言語ゲームの世界」である、と言ってよいであろう。p191
ウィトゲンシュタインの長い長い、今ここでありのまま、への旅を、決して茶化してはならない。この旅こそが人間なのだ。
そして我々は、その後に残る純化された<言語ゲームの世界>において、人間を含めた全てを素直に、ありのままに、見なくてはならない。そうすれば我々は、機械でもなければ、動物でもない。体と心の結合体でもなければ、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から理解できるような存在でもない。神の子でもなければ、悪魔の子でもない。p207
ウィトゲンシュタイン、人気があるわけだ。