「これ これ 千回もこれ」 禅のまさに真髄 <1>
Osho /スワミ・アナンド・ソパン 1993/06 和尚エンタープライズジャパン OEJ books 単行本 362p
No.1001★★★★★
Osho最後のZENシリーズ目次
1000というナンバーを誰に譲ろうが、1001というナンバーはこの人のために空けておきたい。彼にとっては「千と一つ」とは1001のことではない。無数、無限、数えることができないことを示唆している。「これ これ 千回もこれ」 This. This. A Thousand Times This.
全員が完全な沈黙に入りなさい。
自分の内側にエネルギーを集めなさい。
目を閉じ、いっさい動いてはいけない。
これ・・・・・・
これ・・・・・・
何度でもこれだ。 p113
当ブログの最初の千回が、ウィトゲンシュタインの「語りうることはすべて明晰に語りうる」「語りえないものの前では沈黙しなければならない」ということの確認であるなら、次の千回はOshoのいうところの「これ」のステージになるだろう。
禅は生そのものであり、生についての哲学ではない。それは真理であって、神学でも、信仰体系でもない。それは直接の、即座の体験だ。少しでも思考が動いたら・・・・・だが、すべての思考は動きだ。ただ無思考だけが静止している・・・・沈黙すれば、あなたは禅について理解するだけではなく、存在そのものの本質を理解する。
哲学者たちは暗中模索を続けている。彼には多くの考えるべき、議論すべき、論争すべきことがある。だが、禅にはただひとすしかない・・・・・それは直接の洞察、自分自身とのじかの対面だ。ほかのすべては注釈にすぎない。p138
ここで挟める言葉はない。
この禅と呼ばれる探求の旅は、自らの自己を求める旅にほかならない。それは学習ではない。学問がまったく功を奏さないのはそのためだ。それはきわめて純一(シンプル)な体験であり、偉大な学識は壁にこそなれ、橋にはならない。
必要なのは学識ではなく無垢だが、学識のある者はけっして無垢ではない。彼は多くを知りすぎていて、自分が知る以上のことを知っている。しかも彼はそういう借り物のことば、いままでため込んできた、いまもため込みつづけていることばに大へんな自惚れを感じている。 199p
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私はある哲学の教授に「まずあなたが自らの自己を知っているのかどうかを答えるべきです!」と主張したばかりに、そこの単科大学を追い出されてしまった。
彼はありとあらゆる答えを試みた。彼は高名な老学者だった。だが、私は「これらの解答はすべて借り物にすぎません。あなたの答えはなんなのですか?」と言って譲らなかった。
彼は大いに困惑した。彼は大学の当局者をこう言って脅した-----「私は辞職してここを去るつもりだ。私が大学にとどまるのか、あの学生がとどまるか、そのどちらしかない。私はすっかり混乱させられてしまい、最近では夜も眠れやしない。それにあの学生は実に変わり者で、まだ明け方の三時だというのに、私の家にやって来てノックして、『答えをみつかりましたか?』とたずねるのだ」
そういった質問はたずねることもできなければ答えることもできないものだった。学長は私を呼んで言った。「なぜ君は、あの老人をあれほど苦しめるのかね?」
私は言った。「私は誰かを苦しめているわけではありません。いちばん単純な質問にさえ答えられないような、そんな人が言うことはすべて無意味だということです。」 p203
<2>につづく